« イエス、弟子たちに現れる | トップページ | 本書の目的 »

2018年11月 5日 (月)

イエスとトマス

聖書箇所は、ヨハネの福音書20章24節から29節です。

●24節.十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

わたしみたいに疑い深い十二弟子の一人トマスの登場です。

彼は、週の初めの日の夕方、復活されたイエスが他の弟子たちに現れたとき(ヨハネの福音書20章19節から23節)その場にいませんでした。

「ディデュモス」というのは双子を意味するギリシア語だそうです。

●25節.そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

「わたしは決して信じない」と、ここではトマスのみが不信仰のように描かれていますが、トマスは不信仰を代表して描かれているのでしょう。

他の弟子たちはトマスに、「わたしたちは主を見た」と報告します。

ところが、トマスはその証言を信じないで、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言います。

そして、見るだけでなく、イエスの手の釘跡を見て、自分の指を釘痕や脇腹の傷跡に入れてみなければ、つまり、それが幻ではなく実態のある体であると確認するまでは信じないと言い張ったのです。

人の思いを遙かに超えたイエスの復活という出来事は、普通の人間の理性の働きでは理解は困難でしょう。
わたしたちにもそれは言えます。

わたしたちは自分の五感で納得できることしか信じない性質を持っています。

それは不信仰ですが、わたしたちはアダム以降神から離れていますので、それが当たり前になっているのです。何が真理か見えていないのです。

●26節.さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

「それから八日後」というのは、週の初めの日の夕方に、復活されたイエスが他の弟子たちに現れた日から八日後ということでしょう。

トマスは他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言って喜んでいるのを横目に、仲間から去らないで懐疑と羨ましさの中でどうしてよいかわからずに過ごしたことでしょう。

「それから八日後に」トマスが他の弟子たちと一緒にいるとき、「戸にはみな鍵がかけてあったのに」イエスが来られ」ます。

あの八日前と同じ出来事が起こったのです。

イエスは弟子たちの真ん中に立ち、前と同じように「シャローム」の挨拶をされます。

●27節.それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」ですが、ここの「信じる、信じない」は、イエスが復活されたことを信じるか信じないかの問題だと思います。

イエスはトマスが復活を信じていないのをよくご存知で、疑っているトマスだけに語りかけられます。

イエスは手の傷痕を見せ、脇腹の傷痕に触るように求めて、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われます。

イエスはトマスに「脇腹の傷痕に触るように求めて、」おられますが、すがりつくマリアの時のようにトマスは復活されたイエスの霊体に触れることはできないはずです。

それでもイエスがトマスにその様に言われたのはどういうことでしょうか。

考えられるのは、イエスは実際に傷跡に触ることを許されたのではなく、トマスが傷跡に触ることなどしないのはよくご存知の上でその様に言われたということです。

それは、信仰のあり方を教えられたのではないでしょうか。

●28節.トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

「わたしの主、わたしの神よ」、これはトマスの信仰告白です。

トマスは畏れ多いと思ったのかイエスの脇腹に手を触れることなく(それは現実にはできないことですが)、直ちにひれ伏して「わたしの主よ、わたし の神よ」と叫びます。

トマスのこの表情は、目の前に立たれるイエスの臨在に圧倒したのでしょう。

復活のイエスと出会う時、きっとこのようにわたしたちの理性や五感で得られる証拠を求める思いなど何処変え吹き飛んでしまうのでしょうね。

●29節.イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

「見ないのに信じる人は、幸いである。」、このときの弟子たちとトマスは、復活したイエスの顕現を体験して、イエスが復活されたことを信じたが、そのような顕現に接しないで、使徒たちの復活証言(福音)だけで信じる者は幸いであると言われています。

ということは、使徒たちの復活証言(福音)を読み信じる者、つまり、以降の代々の弟子たちは幸いであると言われたのです。

何が幸いかと言いますと、信じる者に聖霊が内住し、その者は喜びと平安に満たされて復活したイエスの顕現を現実に体験することになるから、ということでしょう。

« イエス、弟子たちに現れる | トップページ | 本書の目的 »

ヨハネの福音書を読む」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/208854/67348833

この記事へのトラックバック一覧です: イエスとトマス:

« イエス、弟子たちに現れる | トップページ | 本書の目的 »