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2018年11月 5日 (月)

イエス、弟子たちに現れる

聖書箇所は、ヨハネの福音書20章19節から23節です。

●19節.その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

「週の初めの日」は、安息日明けの一日目を指します。

弟子たちは「ユダヤ人を恐れて、・・家の戸に鍵をかけていた」、つまり、外から入れないように戸はロックされていました。

弟子たちは、イエスが十字架の場で自分たちのことをばらしていないかと思って、いつ自分たちが逮捕されるのかと不安と恐れで震えていたのでしょう。

そのような外から入ることができない部屋にイエスが突然現れて、「あなたたちに平和があるように」と言われたのです。

この言葉は、「あなたにシャローム」というユダヤ人の日常的な挨拶だと言うことです。

鍵をかけていた部屋にイエスが入ってきたのですから、イエスの体は肉体ではないことを示しています。

マリアがイエスは復活されたと報告しているはずなのですが、信じていなかったのです。

なお、弟子たちが誰を指すのか、何人かは不明です。

ローマへの 反逆罪は死刑です。

死刑判決を受けて処刑された者の仲間として、彼らは大祭司などユダヤ教の権力者からもローマ軍からも厳しい探索の目を向けられていたはずです。

弟子たちの隠れ屋はエルサレムにあったはずです。

マルコとマタイの福音書は、弟子たちはイエスの十字架刑のあとガリラヤに戻ったとしています。

しかし、ヨハネとルカの福音書は、弟子たちはエルサレムに残ったとしています。

弟子たちの隠れていた家は、イエスが弟子たちと最後の晩餐をとられた家かもしれません。

戸締りのした部屋に入ってこられたイエスは、もはや生前のイエスではなく、

異次元のイエスです。

そのイエスは、どのような障害物があっても、出入りできる、霊体のイエスです。

だから復活されたと言っても、元の肉体の身体に生き返ったのではないのです。肉体の体であれば、閉ざされた部屋に入ることなどできないはずです。

なお、今までの例から、イエスが閉ざされた家の中に突然現れて弟子たちに挨拶したとき、弟子たちにはその人物が誰かわからなかったと思います。

あまりの意外さに呆然としていたのではないかと思われます。

ほかの個所でもそうですが、復活されたイエスに出会ったときの共通の型として、最初は誰であるか分からないということです。

●20節.そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

復活のイエスが自分は誰であるかを示すために弟子たちに「手とわき腹をお見せに」なりました。

それで初めて弟子たちは、突然現れた人物がイエスだと分かりました。

目の前の人物が,復活したイエスであると認識して、弟子たちは不安と恐れと悲しみから、喜びに変わります。「主を見て喜んだ」のです。

イエスは十字架の前夜、最後の食事の席で、ご自分の死と復活を予告、つまり、「今はあなた方も悲しんでいる。

しかし、わたしは再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなたたちから奪い去るものはいない」(16章16節から22節)と言われました。

このイエスの言葉が今成就したのです。

なお、この喜びは復活のイエスに会った喜び、つまり、聖霊に満たされた喜び、すなわち、命の根源に出会った喜びですから、心の底から湧き出でる喜びでしょう。

●21節.イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす」、は、復活者したイエスに出会う体験は真理に出会う体験です。

真理に出会った人はその体験を黙っておくことができません。

そして、そのことを告げ知らせる(証しする)責任・使命を与えられます。

このイエスの言葉はそのことを言っているのでしょう。

●22節.そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

「息を吹きかけられて言われた」は、創世紀2章7節の「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」を思い出します。

イエスに息を吹きかけられることによって霊的に生きるものになったということでしょう。

したがって、神との霊による交わりができるようになった。

イエスは、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたので、聖霊を受ける準備がととのったと言うことでしょう。

「聖霊を受けなさい」とは、聖霊のバプテスマを指し、聖霊の力を得て真理を告知する為に出て行きなさいと言う意味でしょう。

この予告は、イエスが十字架され天に上られた後実現します(使徒言行録2章)。

こうして弟子たちは、初めてイエスが復活したキリストであることを、身をもって知ることになります。

●23節.だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

「赦さなければ、赦されないまま残る」は、罪を赦す、または赦さない権限が、弟子たちに与えられたのでしょう。

この権限は聖霊によって派遣される弟子たち(十二弟子に限らない)に与えられたのでしょう。

そして、赦すか赦さないかの基準はイエスの言葉を信じるか否かでしょう。

なお、共観福音書では、このような罪を赦すとか、赦さない権限が弟子たちに与えられたという記事は、ヨハネとマタイだけにあります。

マタイの福音書に、その権限が弟子団に与えられた記事(18章18節)とペトロ個人に与えられたとする記事(16章19節)があります。

このヨハネの福音書は、聖霊によって派遣される弟子たち(ペトロとか十二弟子に限らない)に与えられています。

この違いの背景には、この福音書を生みだしたヨハネの共同体とペトロを代表とする「十二使徒団」との確執があったのではということです。

なにしろ、イエスはもうおられませんから、いろいろと弟子たちの立場もあり意見が分かれたのでしょう。

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