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2018年11月 7日 (水)

イエス、七人の弟子に現れる

聖書の箇所は、ヨハネの福音書21章1節から14節です。

前段でこの福音書は一応締めくくられていますが、その後に続く本章21章は、後で加えられたと言うことです。

調べてみると、21章は編集者による別系統の伝承、つまり、主が愛された弟子ヨハネの伝承以外の伝承に基づいてなされたのではということです。

その理由は、20章までのこの福音書の本体と21章の不可部分の内容に違いがあるからと言われています。

それは、福音書本体ではイエスの復活顕現はエルサレムに限られていて、十字架の後弟子たちがガリラヤへ帰ったこととか、ガリラヤでの復活顕現についてはいっさい触れられていません。

ところが、21章では弟子たちは十字架の後当然のようにガリラヤにいるし、ガリラヤでのイエスの復活顕現も記載されています。

これはこの福音書の著者ヨハネがエルサレム出身でエルサレムに居住していたので、ガリラヤでのイエスの活動をよく知らなかったからだと言われています。

ただし、21章で付け加えられた部分は、この福音書の編集者の手によるのではないかということです。

詳しいことは、わたしは学者ではありませんので詮索しません。

では、読んでいきます。

●1節.その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。

「ティベリアスの海辺で」ですが、「ティベリアスの海」はガリラヤ湖のことだと言うことです。

そこは、イエスが最初にペトロに会った場所でから、ペトロはイエスが十字架で処刑された後、失望して落胆して、イエスと出会った思い出の地(故郷)に帰っていたのでしょう。

「その後」というのは、この福音書本体にない出来事を、つまり、エルサレムでの顕現の後に続いてガリラヤで起こったことを付け加えると言うことでしょう。

●2節.シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。

「ガリラヤのカナ出身のナタナエル」は、十二人の弟子に含まれていないが、イエスから「まことのイスラエル人」と賞賛された人物です。

ナタナエルの出身地がガリラヤのカナだと言うことです(1章45節から49節を参照)。

「他の二人の弟子」の内一人はヨハネでしょう。

このように具体的に名前が挙げられているところから、この伝承の出来事は事実あったことだと推測されます。
トップにシモン・ペトロの名があげられています。

これはペトロが弟子団の筆頭であることを指しているのでしょう。

次に「ディデュモスと呼ばれるトマス」ですが、トマスは、共観福音書では名前が出てくるだけですが、ヨハネ福音書では働きも記載しています(11章16節、14章5節、20章24節から29節参照)。

次に「ゼベダイの子たち」、すなわちヤコブとその兄弟ヨハネのことですが、共観福音書ではその活動が詳しく伝えられていますが、この福音書ではここで言及されるだけです。

●3節.シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

ここではペトロが主導的な立場で、「わたしは漁に行く」と言うと、他の弟子は彼に同調しています。

ペトロたちはベテランでガリラヤの海をよく知っている漁師ですが、その漁師たちが夜を徹して漁をしたのですが、「何も獲れなかった」のです。

●4節.既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

ヨハネの福音書では、共観福音書と違いイエスの十字架の後弟子たちはエルサレムに残っていて、そこで復活されたイエスに出会ったとしていますが、この21章を加えて、弟子たちがイエスの十字架の後ガリラヤに戻って漁師の仕事をしており、そこで復活者したイエスに出会ったとして共観福音書と歩調を合わせています。

「それがイエスだとは分からなかった」ですが、夜明けの岸辺にイエスが立っておられるのですが、弟子たちには、誰かが立っているのは分かるのですが、それがイエスであることが分からないのです。

最初はイエスだと分からない、イエスからの何らかのアクションがあって初めてそれがイエスだと分かると言うのは、イエスの顕現物語に共通したパターンです。

死から復活されたイエスの姿は、復活させた神の栄光の現れです。

イエスは霊体であり、異次元の存在ですから分からないのは当たり前です。

分かるためには、人間の霊的な目が開かれる必要があるのでしょう。

●5節.イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。

「何か食べる物」、並行する共観福音書の記事では「魚」という語になっています。

●6節.イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかったのです。

「舟の右側に網を打ちなさい」は、ルカの福音書5章に並行箇所がありますが、漁の仕方、距離が「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と抽象的で、とれた魚の描写もルカは「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」ですから違っています。

ヨハネの福音書の方が現実的ですね。

●7節.イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。

「イエスの愛しておられたあの弟子」がまた出てきました。ヨハネのペトロに対する自分の方がイエスの証人としてよく知っていると言う自己主張でしょう。

やはり、ペトロとの組み合わせで登場します。

「裸同然だったので、上着をまとって」は、ペトロは裸であったので師であるイエスに裸を見せられないということは、はずかしいという意識からでしょうか。それともオッチョコチョイなのでしょうか。

しかし、ルカの福音書の並行個所5章8節でペトロは「・・イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」」と言っていますから、

これは直前にペトロが三度イエスを否認したことを指して言っているのだと思います。

三度までイエスを否認したと言うことは、もう言い訳のできない事態ですから、ペトロはイエスを裏切ったことが恥ずかしくて強い自責の念におそわれ、思わずイエスの足下にひれ伏した、あるいは、イエスの前から逃げたい一心で思わず湖に飛び込んだと言うことでしょう。

ペトロは、イエスを否認した時から、何故否認したのか、おそらく悔やんで自分を責めていたと思います。

そういうところにイエスが突然現れたのですから、こういう反応も理解できます。

●8節.ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

「ほかの弟子たちは、・・舟で戻ってきた。」は、ペトロは湖に飛び込んだので泳いで陸に戻ったのでしょう。

ルカの福音書の並行個所は、文面から見てペトロも舟で戻ったようです。

ヨハネの福音書とルカの福音書とでは出来事の描写が違いますが、これはこの出来事の伝承の過程で変化するとか、福音書編集者の意図が影響しているのでしょう。

「二百ペキス」はどのくらいの距離か調べてみますと、Ⅰペキスが約45センチですから二百ペキスは約90メートルですか。

●9節.さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。

全員が陸に戻ってきました。そこには「炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」ということですが、彼らは陸地に着いたばかりで、魚もパンもあるはずがありません。誰かが先に陸に上がって用意したのでしょうか。

●10節.イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。

またまた不思議なことが起こります。

9節ではすでに炭火がおこしてあり、その上に魚が乗せてあるとなっているのにイエスは「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われます。

何かイエスに意図がありそうです。

●11節.シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

「シモン・ペトロが舟に乗り込んで、網を陸に引き上げる」は、ルカの福音書5章7節では漁師仲間が網を引っ張っています。

ここではペトロ一人が網を陸に引き上げています。

ペトロが網を引き揚げたとするのに意味があるのでしょうか。

「百五十三匹」、おそらく数えたわけではないでしょうから、この数には象徴的な意味があるのでしょう。

世界の民族の総数を象徴するとか色々と解釈されているようです。

ルカの福音書5章6節では、魚の多さを強調するために「網が破れそうになった」と書かれています。

●12節.イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。きっと神の威厳と栄光をともなうイエスの姿に弟子たちは言葉を失っていたでしょう。

●13節.イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。

復活者したイエスが食卓に来られて、弟子たちにパンと魚を与えられます。

自分たちは復活者したイエスと食事を共にしているのだという共同体の体験が、この節の表現の背後にあるのでしょう。

●14節.イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

「もう三度目である。」の三度の内容は、マグダラのマリアへの顕現と、トマスを含む弟子たちへの顕現に続いて、今回を三度目の顕現としています。

三度という数字は証に必要な数字です。

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