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2018年11月 3日 (土)

復活する

聖書箇所は、ヨハネの福音書20章1節から10節です。

●1節.週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

「週の初めの日」は、安息日明けの一日目ですから日曜日です。

イエスが死なれたのは、安息日の前の「過越の準備の日」でしたから、この日は死なれてから安息日をはさんで(ユダヤ人の数え方で)「三日目」ということになります。

最初に墓に行ったのはマグダラのマリア一人となっているのはヨハネの福音書だけで、マタイの福音書は「マグダラのマリアともう一人のマリア」で、マルコの福音書は、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」で、ルカの福音書は「婦人たち」となっています。

マリアは「朝早く、まだ暗いうちに」墓に行きます。

このことと、石が取りのけられていたことは四福音書に共通しています。

「墓から石が取りのけてある」の石は、洞窟に入る入口をふさぐために大きな石を指しているのでしょう。

まだ暗いうちですから、見えるのは大きなこの石だけでした。

しかし、2節でペトロらにイエスがいないことを告げていますので、石が取りのけてある墓の入り口から中を見ることができたのでしょう。

●2節.そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」

「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」は、やはりこの福音書の著者ヨハネ自身のことでしょう。

イエス復活の証人としてペトロと同等に扱われています。

こういうことはこのヨハネの福音書のみですから、やはり著者自身が自分のことをこのような形でこの福音書に登場させたのでしょう。

ペトロの権威が強くなり、自己主張したかったのでしょうか。

マグダラのマリアは走って行って二人に「主が墓から取り去られました。

どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」と告げます。

ここの「わたしたち」とありますから複数形です。

したがって、最初にイエスの墓に行ったのはマリア一人ではないのです。

共観福音書では、墓で天使が現れて女性たちにイエスの復活を告げるとか、それを弟子たちに伝えるように命じたとしていますが、ヨハネの福音書にはその記事はありません。

そういう伝承があったのは事実でしょうが、そのような大切なことを十字架の現場にいたヨハネは書いていないので、確かなところはわかりません。

なお、「取り去られました」というのは、調べてみると、取り上げるとか移すという意味だと言うことです。

したがって、奪われたのではありません。

●3節.そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。

マリアの報告を聞いた二人の弟子、つまり、ペトロともう一人の弟子は、すぐに墓に向かって走り出します。

●4節.二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。

「もう一人の弟子の方が、・・速く」ですが、またここでもヨハネは自己主張しています。

ヨハネは、自分は十字架の場にいたし、イエスに最も愛されていた、そして、最初にイエスの復活を確認するのは自分だと主張したかったのでしょう。

ヨハネはこの時はペトロより若く、十代半ばでしたからペトロより早くつくのは当たり前です。

●5節.身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。

「身をかがめて・・」ということは、墓の入り口は低いところにあり狭かったのでしょう。

「亜麻布」は、薄暗がりの洞窟の中に白い麻布(イエスの死体を包むための)が置いてあるのを見たのでしょう。
「彼は」つまりもう一人の弟子は中に入らずにペトロの到着を待ったのです。

これはおそらく、墓の中の事実を二人で確認するための慎重な配慮だと思います。

ユダヤ教では、重要な事実の確認には二人の証人が必要とされていましたからね。

●6節.続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。

遅れて墓に到着したシモン・ペトロは、墓の小部屋に入り、そこに亜麻布が置かれているのを確認します。

●7節.イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。

「イエスの頭を包んでいた覆い」は、遺体の頭の上に置かれる布きれで、ラザロにも用いられていました(11章44節)。

この布きれが、イエスの遺体を包む亜麻布とは別の場所に置いてありました。

「離れた所に丸めてあった。」とあるのは、亜麻布が「置かれていた」 という表現もそうですが、遺体が盗まれたのならば亜麻布で包んだままで運びます。裸にして運ぶ場合でも、わざわざ布切れを丸めておくことはしないで、無造作に捨て置かれるでしょう。

置いてあるという表現から、丁寧に亜麻布は解かれ、布切れと共に丁寧に置かれていたのでしょう。

これは、イエスがご自分でこの場所から出て行かれたことを指します。

●8節.それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。

「もう一人の弟子も入ってきて、見て、信じた」のもう一人の弟子はヨハネですが、彼はペトロに遅れて入ってきて遺体がないのを見て、イエスが復活されたことを信じたのですが、ペトロは信じたと言う記載はりません。

●9節.イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書」の聖書は、旧約聖書(いま私たちが持っている体裁とは違いますが)のことで、旧約聖書は全体で来たるべきメシアは死者たちの中から復活すると預言していました。

「二人はまだ理解していなかったのである」と、わざわざイエスの復活を二人の弟子は理解していなかったと説明しています。

この説明は、おそらく、8節の「見て、信じた」の理由を説明するためでしょう。

旧約聖書の復活預言を理解しているのであれば、事実を見るまでもなく、イエスの復活を信じているはずです。

しかし、弟子たちは墓が空である事実を見るまでは(そして実際に復活されたイエスの顕現を体験するまでは)、聖書をこのように理解していなかったのです。

●10節.それから、この弟子たちは家に帰って行った。

「家に帰って行った」、は、家でなく自分たちのところに戻った、つまり、イエス逮捕で逃げ帰っていたいつも集まっている場所に帰ったということでしょう。

自宅はガリラヤにありエルサレムではないはずです。

「空の墓」の物語は、創作ではないと思います。

信じない者は、誰かが遺体を移したとか、弟子たちが盗んだとか言うでしょう。

復活されたイエスの顕現を体験(聖霊体験のこと)した者は、確信をもって、この空の墓こそイエス復活の証だと主張するでしょう。

でも、ヨハネの福音書20章29節にこのようなイエスの言葉があります。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

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