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2018年11月 3日 (土)

イエス、マグダラのマリアに現れる

聖書の箇所は、ヨハネの福音書20章11節から18節です。

●11節.マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、

二人の弟子は「家に帰って行った」のですが、おそらく少し遅れて墓に来ていたマグダラのマリアは一緒に帰らずに墓の前で泣いていたのでしょう。

そして、二人の弟子から中の様子を聞き、恐る恐る墓の入り口で身をかがめて中を覗いたのでしょう。

●12節.イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。

身をかがめて墓の中をのぞいたマリアは、「白い衣を着た二人の天使」を認めます。

その二人の天使の一人は、「頭の方に」、もう一人は「足の方に」座っていました。

●13節.天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と語りかけます。

泣いた理由はイエスの遺体がなかったからでしょう。

よほど深くイエスを慕っていたのでしょう。

共観福音書と同様、この福音書にも天使が登場します。

共観福音書の天使の数は、マルコとマタイは一人、ルカは二人です。

違うところは、ヨハネ福音書では墓で現れた二人の天使はマリアに「なぜ泣いているのか」と言って泣く理由を尋ねるだけで、共観福音書のように、イエスの復活を告げるとか、ガリラヤへ行くように指示するようなことはしていません。わたしはヨハネの福音書を信じます。

●14節.こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。

「それがイエスだと分からなかった」ですが、マリアはイエスのことをよく知っているはずです。

そのマリアが復活されたイエスを見て、それがイエスだと分からなかったのです。

ほかの個所もそうですが、復活された方に出会う顕現体験では、何か人格に出会っているのは気配で分かるが、初めそれが誰であるか分からないという点が共通しています。

その人格からの語りかけなどの働きかけがあって始めてその人格がイエスだと分かるのです。

これは、復活されたイエスを見るためには、聖霊の働きが必要なのでしょう。つまり、霊を見る目が必要なのでしょう。

イエスの働き、すなわち、聖霊の働きがあって初めてイエスだとわかるようになるのです。

すなわち、霊の世界の人格に会うときは、人格と出会っていることは気配として分かりますが、それが誰であるかは分からないのです。

その人格が名乗るとか語りかけるなどして初めて、その人格が誰であるかを知ることができると言うことになります。

●15節.イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

マリアに顕現されたイエスは、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」と声をかけます。

マリアはよほど動転していたのか、まさかイエスが復活されたとは思っていなかったのか、その声の主は園丁だと思いました。

マリアは墓の入り口にいて墓の中に入らないで、入口から中を覗いただけですので、そのマリアに後ろから声をかけたのですから、マリアは、その声の主がこのあたりの園の世話をする園丁だと間違うのはあり得ることです。

それに、園長であれば、園の世話人ですから、イエスの遺体を何処かえ運んだと思うということもあり得ることです。

だからマリアは常識的な反応をしたわけです。

だからマリアはその人物に、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」と語りかけたのです。

マリアは、復活されたイエスに出会った段階でも、マリアの中では復活などは思いもよらない、想像すらできないことであったのでしょう。

生前のイエスに復活の告知をされていても、信じていなかったのです。

●16節.イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

イエスがマリアに声をかけると、マリアは「ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。」のです。

「ラボニ」とうのは、説明されているように、「ラビ」と同じで、共に「わたしの主人」とか「わたしの先生」を意味するということです。

すぐれた律法教師への敬称だと言うことです。

イエスの呼びかけに、マリアが直ぐに「ラボニ」と反射的に答えたのは、生前のイエスがいつも自分に呼びかける声と同じ声がしたので、その声にとっさに反応する形で言ったのでしょう。

「ラボニ」という言う言葉をそのまま残しているところも、聖書信憑性を証することになります。

●17節.イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

「わたしにすがりつくのはよしなさい」ですが、マリアはその声がイエスだとわかると、イエスが元の身体で生き返られたと思ったのでしょうか(この段階ではイエスが霊体で復活されたとは思いもよらないはずです。)、だからとっさにすがりつこうとしたのです。

ところが復活されたイエスは、マリアを押しとどめて、「まだ父のもとへ上っていないのだから。」とすがりつくのを止められたのです。

「まだ父のみもとに昇っていないから、」ということは、復活した直後で、つまり地上の身体を脱ぎ捨てた段階で霊体のままだから、地上の人間が直接触れることはできないということ意味に理解したいと思います。

それでは、地上の人間が直接触れることができる復活者したイエスの体とはどのような体でしょうか。

それは地上の体である肉体と霊体の中間的な体でしょうか。

どちらにしても、イエスの言葉を信じる者が天の国に行ったときに復活の体を戴けるのですが、その体と同じだと思います。

ここでは推測する以外知る方法はありません。

どちらにしても、このようリアルな描写は、この話の信憑性を証するものではないのでしょうか。

「わたしの兄弟たち」とは、弟子がイエスの兄弟になったことを表し、弟子たちも復活したイエスと同じ霊的次元に生きる者となることを示唆しています。

「『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方・・』ですが、これは復活したイエスと弟子である兄弟は同じ神の兄弟として、復活者したイエスと同じ霊の次元に生きているのだということを示唆しています。

なお、「あなたがたの神である方のところへわたしは上る」とは何処に上るのでしょうか。

聖書にはイエスを信じる者が死ねばバラダイスに行くことになっています。(ルカの福音書23章43節。第二コリント12章2-4節)。

天国はこの宇宙が火で焼かれて消滅し、最後の審判がなされた後に、イエスの教えを信じた者がいくところです。
だからそれまでに死んだキリスト信者はパラダイスにいることになります。

しかし、イエスは父なる神のもとですから、天国に行かれることになります。

●18節.マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

「わたしは主を見ました」というのは、イエスの復活を告知する言葉になります。20章20節とか20章25節にも使われています。

「主から言われたことを伝えた。」というのは、イエス復活の告知と、17節のイエスの言葉、『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』を伝えたと言うことでしょう。

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