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2018年10月の記事

2018年10月30日 (火)

死刑の判決を受ける

聖書の箇所は、ヨハネの福音書18章38節から19章16節です。

●38節.ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。

「真理とは何か」と ピラトは問います。

ピラトはこの世の支配者ですからこの世以外のことは分かりません。

ピラトが「お前はユダヤ人の王なのか」と問うとイエスは「わたしの国は、この世には属していない。

もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。
しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」(36節)と答えられています。

そして、ピラトが「「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。

わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。

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ピラトから尋問される

聖書の箇所は、ヨハネの福音書第18章28節から38節です。

●28節.人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。

●29節.そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。

●30節.彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。

28節の「汚れないで過越しの食事をするためである」というのは、ユダヤ人にとって異邦人(ここでは、ローマ総督ピラト)との接触は祭儀上の汚れとされていたからでしょう。

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2018年10月28日 (日)

ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う

聖書箇所は、ヨハネの福音書18章25節から27節です。

●25節.シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。

ペトロがイエスを否認する場面の二回目です。

先には門番の女中がペトロに「お前もあの男の弟子たちの一人ではないのか」と問いつめましたが、今度はペトロと一緒に火にあたっていた人々が、同じ言葉でペトロを問いつめます。

彼らはイエスの逮捕に向かった軍勢の中にいた者たちであり、その時ペトロの顔も見ていたのでしょう。

したがって、現場にはいなかった先の女中の詰問よりも反論が難しい詰問になっています。

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大祭司イエスを尋問する

聖書箇所は、ヨハネの福音書18章19節から24節です。

●19節.大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。

ここの大祭司とあるのは、その年の大祭司カイアファのしゅうとであるアンナスのことでしょう(13節)。

アンナスはイエスの弟子たちの人数やイエスの教えの内容などについて尋問します。

●20節.イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。

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ペトロ、イエスを知らないと言う

聖書の箇所は、ヨハネの福音書18章15節から18節です。

●15節.シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、

●16節.ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。

共観福音書では、イエスについて行ったのはペトロだけですが、ヨハネ福音書は、「もう一人の弟子」がシモン・ペトロと一緒に逮捕されたイエスについて行ったことを伝えています。

この「もう一人の弟子」は「大祭司の知り合い」ですから、逮捕されたイエスが大祭司の屋敷に連れて行かれたときに、一緒に大祭司の屋敷の中に入って行くことができたのでしょう。

「大祭司の知り合い」であれば身分の高い家族に属するはずです。

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2018年10月25日 (木)

大祭司のもとに連行される

聖書の箇所は、ヨハネの福音書18章12節から14節です。

●12節.そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、

イエスの逮捕に向かったのは「一隊の兵士と千人隊長」ですから、おそらく、大規模なローマ正規軍と「ユダヤ人の下役」、すなわちユダヤ人の神殿警護隊であったと推測されます。

彼らは、進み出て来られたイエスを捕らえて縛ります。

他の弟子たちは、イエスの言葉通りに見逃されて、その場から闇に紛れて逃げ去ります。

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裏切られ逮捕される

聖書箇所は、ヨハネの福音書18章1節から11節です。

●1節.こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。

イエスはいよいよ最後の時を迎え、食事の席で、後に残される弟子たちにご自分が去ったあとに「別の同伴者」が来ると告知されます。

「キドロンの谷」を調べてみると、「ケデロンの谷」とも言われていて、エルサレムとその東にあるオリーヴ山との間にある深く切り込んだ谷と言うことです。

したがって、キドロンの谷の向こうへと言うのは、オリーヴ山の山麓になります。

●2節.イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。

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2018年10月23日 (火)

イエスの祈り(2)

聖書の箇所は、ヨハネの福音書17章1節から26節です。

二回に分けて(2)は14節から読みます。

●14節.わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。

「世は彼らを憎んだ」は、わたしの言葉(イエスの生涯の出来事全体を指すと思います。)を信じた(受入れた)弟子たちも、わたしと同様今はサタンが支配する世には属していないのです。

つまり、サタンが支配するこの世の中に敵対する神の支配のエリアーが出来たと言うことです。

それがキリストにある者のエクレシアである共同体であり、教会なのです。

世はわたしの言葉が理解できないので彼らを憎むと言うことでしょう。

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イエスの祈り(1)

聖書箇所は、ヨハネの福音書17章1節から26節です。
二回に分けて(1)では13節まで読みます。

●1節.イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。

「栄光を現す」とは、奇跡、いやし、十字架の死とそれに続く出来事(復活)を含む神的力、啓示の出来事を指していると思います。

その出来事が「子が父の栄光を現す」出来事となります。

「これらのことを語り」とは、13章から16章のイエスのこの世を去られるに際しての残される弟子たちに対する最後の教え、遺訓を指していると思います。

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2018年10月21日 (日)

イエスは既に勝っている

聖書箇所は、ヨハネの福音書第16章25~33節です。

●25節.「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。

●26節.その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。 わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。

●27節.父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。

●28節.わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

●29節.弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。

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悲しみが喜びに変わる

聖書の箇所は、ヨハネの福音書16章16節から24節です。

●16節.「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
「しばらくすると・・見なくなる・・見るようになる。」ですが、イエスの苦難の十字架死を表しているのでしょう。

この先の「見なくなる」は、普通に目で見ることを指していて、後の「見ることになる」は、復活されたイエスのことを指しているのでしょう。

この復活のイエスは、復活されたイエスとイエスの代弁者である聖霊の両方を指すと思います。

つまりここは、イエスが世を去って、目で見ることができないようになりますが、その後すぐに復活者(復活されたイエスと聖霊)として弟子たちには見られるようになることを予告しているのでしょう。

●17節.そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」

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2018年10月19日 (金)

聖霊の働き(3)

聖書の箇所は、ヨハネによる福音書第16章10節から15節です。

●10節.義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、

わたしたちに神の義(正しさ)が明らかにされるのは、「わたしたちが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」とあります。

イエスを見なくなったから神の義が現れるとはどういうことでしょうか。

神の義の正しさが明らかにされるとは、イエスがこの世から去れば、弁護者である聖霊がこの世に送られイエスの言葉を受け入れた人々(弟子たち)に内住される。

聖霊を受けた弟子たち(代々の)は、イエスの身に起こる神の業(十字架と復活)の意味を知ることになる。

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聖霊の働き(2)

聖書の箇所は、ヨハネの福音書第16章7節から9節です。

●7節.しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。

ここでは、「わたしが去って行く」そのかわりにあなた方を助けるために弁護者(聖霊)をあなた方に送るといわれています。

といっても、このときの弟子たちには弁護者(聖霊)の意味がよくわからなかったと思います。

イエスは、意味がわからなくても言っておく必要があったのでしょう。

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聖霊の働き(1)

聖書の箇所は、ヨハネの福音書第16章4節から6節です。

ヨハネの福音書を読んでいますと、どうしても聖霊の話が多くなります。

しかし、大切なことなので省略はできないのです。

●4節.しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。

●5節.今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。

●6節.むしろ、わたしがこのことを話したので、あなた方の心は悲しみで満たされている。

今回は、キリスト教と聖霊の働きについて考えてみます。

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2018年10月16日 (火)

迫害の予告

聖書箇所は、ヨハネの福音書15章18節から27節です。

●18節.「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。

「世があなたがたを憎む・・わたしを憎んでいた」の世とは、サタンに支配されたこのわたしたちが住む世界のことで、この世を支配するサタンは、イエスの天国の論理とは相容れないので、世はイエスを憎むことになる。

具体的には、律法主義に立つユダヤ教世界が神の恩恵の支配を告知するイエスを憎んだことを指しているのだと思います。

イエスの十字架の死はサタンの憎悪と敵意の結果です。

イエスを憎んだのは、サタンに支配されたユダヤ教世界です。

ユダヤ教世界とはユダヤ人であるユダヤ教の指導者層です。

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2018年10月15日 (月)

イエスはまことのぶどうの木(2)

聖書箇所は、ヨハネの福音書第15章1節から17節 です。

ここ(2)では9節から読みます。

●9節.父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。

「わたしの愛に留まりなさい」とは、ぶどうの木の実のなる枝で、5節の「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、・・」の状態を言っているのでしょう。

そういう状態の内に留まることが、具体的には「わたしの愛の内にとどまる」ことになると言われています。

愛に留まるということは愛され続けるということです。

でも、わざわざ留まりなさいと言われるのは、たとえイエスの言葉を受け入れても、サタンが跋扈するこの世を生きる限り、自分の性質である生まれつきの命、肉の欲を持ったままですので、また、サタンに唆されて罪を犯すこともありますので、常に気をつけて、意識して心を神に向けて人生を生きなさいと言うことでしょう。

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イエスはまことのぶどうの木(1)

聖書箇所は、ヨハネの福音書第15章1節から17節 です。

投稿文は二回に分けまして、(1)では8節までを読みます。

復活者したイエスと弟子たちのつながりをぶどうの木とその枝の比喩で語られています。

このたとえは、前置きがなく、別の個所とのつながりもなく唐突に始まっています。

この唐突さは、この部分がもともと独立した別のまとまりであり、後から原著に挿入されたものであるからではないかと言われています。

●1節.わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

「まことのぶどうの木」ですが、イエスと弟子たちのつながりがぶどうの木とその枝の比喩で語られているのでしょう。

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2018年10月13日 (土)

聖霊を与える約束(3)

聖書箇所は、ヨハネの福音書14章15節から31節です。三回に分けて投稿し、本稿(3)では18節から読みます。

「聖霊を与える約束」の最終です。

ヨハネの福音書を読んでいるとどうしても聖霊についての話が多くなります。わたしが洗礼を受けたのが、ペンテコステ派の教会でしたので、聖霊についてどうしてもこだわってしまうところがあるのかもしれません。

聖句は、ヨハネの福音書第14章の18節から21節です。

イエスは弟子達に、自分が十字架につけられこの世から去っていくことを予告されました。

そのときに、「真理の御霊」である聖霊を助け主として遣わすことも約束されたのです。

●18節、わたしは、あなたがたを孤児にしてはおかない。あなたがたのところへ戻ってくる。

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聖霊を与える約束(異言)(2)

弁護者とか真理の霊と言われる聖霊は、イエスの代わりに来られる方ですから、イエスの御霊とか霊イエスとか言われています。

通常、聖霊と言っています。

イエスはその聖霊について、「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。」(ヨハネの福音書第14章17節)と言われています。

これは、イエスの言葉を信じようともしない人、いわゆるイエスを知らない、あるいは知ろうともしない世間の人のことを言っておられるのだと思います。

イエスの御霊、聖霊の働きを知りたければイエスの言葉、いわゆる聖書を読んだり聞いたりする必要があるのですが、イエスの言葉を聞かされても、拒否する人、無視する人がおられます。

イエスの御霊、聖霊は人々に神を知るように、信じるように働かれますが、決して強制はされないので、拒否するとか、無視するような人たちにはどうしょうもない。

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聖霊を与える約束(1)

聖書箇所は、ヨハネの福音書14章15節から31節です。

三回に分けて投稿し、(1)と(2)では17節までを読みます。

●15節.「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。

●16節.わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

●17節.この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

ここは、イエスが弟子たちと別れて十字架へ向かう直前に弟子たちに語られた別れの言葉です。

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2018年10月11日 (木)

イエスは父に至る道(2)

聖書の箇所は、ヨハネの福音書14章1節から14節です。

長いので二回に分けまして、(2)では、6節から最後まで読みます。

●6節.イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

「わたしは道であり・・」、この言葉は、先のトマスの「どうしてその道を知ることができましょうか」という問いかけに対するイエスの答えでしょう。

この「道」は、定冠詞つきの単数形ですから、唯一の道であることを語っていると言うことです。

復活者したイエス(聖霊)こそが、人間が神の国に行くことができる唯一の道だと宣言しているのです。

この「わたしが道」というのは、具体的に、人間は復活者したイエス(聖霊)の働きに自分を委ねて聖霊と共に生きるのでなければ、神を父として知り、父との交わりに生きるようになることはできない、という宣言です。

唯一ですから、ユダヤ教徒であろうが、異教徒であろうが、人は誰でもイエス・キリストに合わせられることによって聖霊を受け、その聖霊によって父との交わりに生きることが出来るのです。

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イエスは父に至る道(1)

聖書の箇所は、ヨハネの福音書14章1節から14節です。

長いので二回に分けました、(1)では5節までを読みます。

有名な最後の晩餐の食事の席で、イエスがなされたことは、弟子の足を洗ったり(ヨハネの福音書13章1節から20節)、弟子の一人が裏切ることを予告されたり(ヨハネの福音書13章21節から30節)、新しい掟を与えたり(ヨハネの福音書13章31節から35節)、弟子ペトロの離反を予告(ヨハネの福音書13章36節から38節)するなどです。

しかし、晩餐会にでていた弟子たちには、それらイエスのなされたこと、話されたことの意味が分かりません。困惑したでしょう。

ましてや、食事の席でイエスが弟子の一人が裏切るなどと語り出されると、弟子たちはますます困惑するばかりです。

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2018年10月 9日 (火)

ペトロの離反を予告する

聖書の箇所は、ヨハネの福音書第13章36節から38節です。

いよいよ福音書は、イエスが十字架につけられるクライマックスの場面に入ります。

十字架を前にしてイエスは、弟子達に最後の教えを述べます。

そして、これから起こることを予告します。

イエスを裏切ったことで有名なユダは、信じているから期待が外れて怒るので、捕まったイエスを知らないと三回言ったペトロは、信じているから否認するのです。

信じていなければ否認をする必要はありません。

両者がそのような行動を起こす共通する理由は、自分の信仰、自分の知力に確信を抱いているからで、それが裏切りとか否認につながるのです。

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新しい掟

聖書の箇所は、ヨハネの福音書第13章31~35節です。

この箇所では、イエスが十字架にかけられこの世を去られることがイエスの十二人の弟子の中の一人であるユダの裏切りにより決ったことを予告されたこと、また、イエスは十字架から三日後に復活され、父なる神のそばにいかれたことが書かれています。

その代わりに弟子たちの助け主として聖霊がこの世に遣わされますが、そのことにより始まる新しい掟を「新しい掟」として述べられます。

イエスは、この「新しい掟」によって、自分がこの世からいなくなった後に形成される信徒の交わり、教会の組織を維持するよう命令されるのです。

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2018年10月 7日 (日)

裏切りの予告

聖書箇所は、ヨハネの福音書13章21節から30節です。

●21節.イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

「心を騒がせ」とは、イエスはユダの裏切り行為は事前に知っておられるので、そのことが原因ではなく、むしろそれはイエスが口から出した言葉は必ず実現する、イエスの苦難の十字架が絶対に実現するということですから、これらのことはこれから起こる人類救罪の業という重大な神の出来事の前章として、イエスの心を騒がせたということではないでしょうか。

このことは、聖書で預言されていたこととはいえ、イエスにとってきわめて辛いことであったのでしょう。

そのような激しい感情の中から、イエスは「はっきり言っておく。」、つまり「アーメン、アーメン」と語を重ねて、決然とした調子で「あなたたちのうちの一人がわたしを引き渡そうとしている」と語り出されます。

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弟子の足を洗う

聖書箇所は、ヨハネの福音書第13章1節から17節です。

●1節、イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

●2節.夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。

●3節、イエスは、父(父なる神)がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとからきて、神のもとへ帰ろうとしていることを悟り、

●4節、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

●5節、それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで吹き始められた。

●6節.シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。

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イエスの言葉による裁き

聖書の箇所、ヨハネの福音書12章44節から50節です。

●44節.イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。

「イエスは叫んで、こう言われた」とありますが、イエスは叫んで誰に言われたのでしょうか。

敢えて言えば、この世に対するイエスの呼びかけでしょうか。

となると、この言葉は、イエスは父なる神と一体であるから、イエスを信じる者は神を信じているのと同じである。

すなわち、イエスは神からこの世に遣わされた方であり、このイエスを信じることが救いであり、永遠の命であるという告知になります。

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2018年10月 4日 (木)

イエスを信じない者たち

聖書箇所は、ヨハネの福音書12章37節から43節です。

●37節.このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。

「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われた」がそれでも、「イエスを信じなかった」とし、福音書著者はユダヤ人の不信仰を責めています。

福音書著者は、このユダヤ人の不信仰を預言者によって預言されていたことだとしています。

預言の個所は38節と39節にある通りイザヤ書53章1節、同6章10節です。

●38節.預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」

「預言者イザヤの言葉」は、イザヤ書53章1節「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」です。

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人の子は上げられる

聖書箇所は、ヨハネの福音書第12章27節から32節です。

イエスは近づく十字架の苦しみを思い祈られます。

イエスの身にこれから起こる誰もが思いも寄らない出来事をイエスは事前に予告され、その出来事の意味を語られています。

●27節.「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。

イエスは、迫ってくる十字架の苦難を思い、苦しみからの救い(この時から救ってください)を祈られています。
イエスは神と一体ですから、イエスにはどんなことでもできる神の力があります。

病人を癒し、パンを増やし、嵐を静められ、死人を蘇えらせる力があります。

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2018年10月 1日 (月)

ギリシア人、イエスに会いに来る

聖書箇所は、ヨハネの福音書第12章20節から25節です。

ここには神の国の摂理と人類への計画が伺えます。

●20節.さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。

●21節.彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。

●22節.フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。

イエスがエルサレムに入城されたすぐ後で、異邦人(ユダヤ人以外の人々)である何人かのギリシア人たち(20節)が、面会するためにイエスを訪れます。

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エルサレムに迎えられる

聖書箇所は、ヨハネの福音書12章12節から19節です。

●12節.その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、

「その翌日」、ベタニヤでのマルタの塗油が過越祭の六日前(12章1節)ですから、「その翌日」は過越祭の五日前、すなわち日曜日に当たります。

ついにイエスはエルサレムに入られます。

●13節.なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」

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