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2018年9月の記事

2018年9月28日 (金)

ラザロに対する陰謀

聖書箇所は、ヨハネの福音書12章9節から11節です。

●9節.イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、それよりもイエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためであった。

ラザロの葬儀のときにもエルサレムから大勢のユダヤ人がベタニアに来ていました(11章18節から19節)。

ラザロを生き返らせたイエスの力ある業を見た大勢のユダヤ人たちは、イエスが再びベタニアに来ておられるのを知って、やって来たのでしょう。

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ベタニアで香油を注がれる

聖書箇所は、ヨハネの福音書12章1節から8節です。

●1節.過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。

最高法院が自分を殺そうとたくらんでいることを察知されたイエスは、11章54節にあるように「それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。」のです。

荒れ野に近い地方のエフライムという町は、おそらく山間部でエルサレムの目が届かないへんぴな村であったのでしょう。

そこでしばらくの間イエスは弟子たちと共に身を潜めて過ごされますが、「過越祭の六日前に」なって、再びベタニアに戻って来られます。

いよいよイエスの時が来たのでしょう。

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イエスを殺す計画

聖書箇所は、ヨハネの福音書11章45節から57節です。

●45節.マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

●46節.しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。

ラザロの葬儀のためにエルサレムから来ていた多くのユダヤ人たちは、イエスが目の前でラザロを生き返らせたのを見てイエスの言葉を信じましたが、中には、エルサレムに急いで戻り、ユダヤ教の指導層の人たちにこの出来事をご注進した人もいたでしょう。

この出来事により、いよいよ舞台はエルサレム神殿内の最高法院に変わります。

●47節.そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。

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2018年9月26日 (水)

イエス、ラザロを生き返らせる

聖書箇所は、ヨハネの福音書11章38節から44節です。

●38節.イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。

「再び心に憤りを覚えて」ですが、この憤りはおそらく悪魔に対してだと思います。

憐み深いイエスが、人間の重荷を一身に背負われたイエスが、人間に憤りを覚えられるはずがありません。

悪魔が支配するこの世の悲惨、人間をこのような事態に陥れた悪魔に対する憤りではないかと思うのです。

福音書著者は、ここで目の前にある墓の状況を説明しています。

解説によると、当時の墓は山腹にくり抜いた横穴の洞窟で、その中に遺体を横たえたそうです。

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イエス、涙を流す

聖書箇所は、ヨハネの福音書11章28節から37節です。

●28節.マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。

●29節.マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。

●30節.イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。

イエスが姉妹のマリアを呼ばれたので、マリアはすぐにイエスの下、すなわち、マルタがイエスを出迎えたベタニヤの村はずれまで行きます。

●31節.家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。

「兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。」(11章19節)多くのユダヤ人たちがマリアの後を追って行きます。

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2018年9月24日 (月)

イエスは復活と命

聖書箇所は、ヨハネの福音書11章17節から27節です。

●17節.さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。

「墓に葬られて既に四日たっていた」ですが、当時の墓は、山腹をくりぬいた横穴を石で塞いでおく形のものが多かったそうです。

遺体は土に埋めるのではなく、布で巻いて横穴に横たえておかれたということです。

わざわざ「四日もたって」と日数を書いているのは、ラザロは仮死状態から蘇生したのではなく、ラザロが確実に死んだ中から蘇生したことを強調するためでしょう。

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2018年9月23日 (日)

ラザロの死

聖書箇所は、ヨハネの福音書11章1節から16節です。

ヨハネの福音書は独特なものがありますが、ヨハネの福音書はイエスがなされた奇蹟の報告ではなく、その奇蹟の意義を語るとか、イエスの説話の方に力点が置かれていると思います。 

ここは死んだラザロを生き返らされたというイエスが地上におられたときの最大の奇蹟が記されています。

イエスが悪霊を追い出し、様々な病気を癒されたことはどの福音書にも数多く報告されていますが、この奇跡はその中でも、最大の奇跡である死んだ人を生き返らされたという事例です。

なお、死んだ人を生き返らせる事例は、ここのほかにイエスが会堂司ヤイロの娘を生き返らされた事例とか、ルカの福音書7章11節から16節にあるようにナインのやもめの息子を生き返らされた事例があります。

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イエスを拒絶する(2)

聖書箇所は、ヨハネの福音書10章22節から42節です。

(2)では、32節から42節を読みます。

●32節.すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」

イエスがなされた多くの力ある業は、悪霊を追い出し病人を癒すなど、人が人として生きることを助ける「善い業」です。

それは、人がなしえない業であり、 父なる神から賜る力でしかなされない働きです。その中のどの業が、石打に相当するような行為になるのか、とイエスは反論されたのでしょう。

「多くの善い業」の善い業は万物を造った父なる神のみがなしえることだと思います。

霊的存在がほかに(例えば天使とかサタンを指すのでしょう)あっても善い業はなしえないのです。

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ユダヤ人、イエスを拒絶する(1)

聖書箇所は、ヨハネの福音書10章22節から42節です。

長いので二回に分けまして、(1)では、31節までを読みます。

●22節.そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。

「冬であった」というのは、神殿奉献記念祭はキスレウの月(ユダヤ暦で第9の月で、現行の太陽暦では11~12月にあたる)の25日になりますので、季節は冬になります。

ヨハネの福音書では、秋の仮庵祭(7章2節)、冬の神殿奉献記念祭(10章22節)、春の過越祭(11章25節)と、祭りを節目として、イエスの最後の日々が進んでいきます。

●23節.イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。

「ソロモンの回廊」は、神殿の前庭を取り囲む柱廊の東側の部分ということです。

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2018年9月19日 (水)

イエスは良い羊飼い

聖書箇所は、ヨハネの福音書10章7節から21節です。

●7節.イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。

「わたしは羊の門である」は、前にも書きましたが復活したイエス(復活の御霊、聖霊)が「門」とされていますから、復活したイエスを拒否するファリサイ派の人々(ユダヤ教会堂の指導者たち)は、門を通らないで、ほかのところを乗りこえて羊を奪いに入ってくる盗人や強盗となります。

●8節.わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。

「わたしよりも前に来た者」とは、いやされた盲人を追放したユダヤ教会堂の指導者たちのことを言っているのでしょう。

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「羊の囲い」のたとえ

聖書箇所は、ヨハネの福音書10章1節から6節です。

イエスをキリストと言い表し、9章の「生まれつきの盲人をいやす」の話の目の見えない人に真の命を与えた真の羊飼いはイエスであることを説いているのだと思います。

●1節.「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。

羊飼いと盗人や強盗との違いをたとえの形で語っています。

「門」と「羊飼い」は、両方ともイエスのことを言っているのだと思います。

つまり、「羊飼い」はイエスですから、飼っている羊はイエスの言葉を受入れた信仰者(複数)となり、神の国への門もイエスを指し、門を通らないでというのはイエスを通らないで神の国に入ろうとする者は、盗人であり強盗だと言っているのです。

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2018年9月15日 (土)

フワリサイ派の人々の罪

聖書箇所は、ヨハネの福音書9章35節から41節です。

イエスは生まれつき目の見えない男を癒されましたが、その盲人が前節でユダヤ教会堂から追放されました。

そこで、場面が変わってそのユダヤ教会堂の近くの街頭でその盲人はイエスに出会います。

●35節.イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。

ご自分が癒された盲人がユダヤ教会堂から追い出されたことをお聞きになったイエスは、ご自分から彼を見つけて「あなたは人の子を信じるか」と言われます。

彼はすでにイエスを預言者と認めてそう言い表しています(17節)が、キリストの民に加わるためには、イエスが預言者以上の方であることを知り、そう言い表さなければなりません。

そのことを表しているのが、ここの「人の子」という称号でしょう。

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フワリサイ派の人々、事情を調べる

聖書箇所は、ヨハネの福音書9章13節から34節です。

●13節.人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。

人びとは盲人を「ファリサイ派の人々のところに連れて行った」のです。

おそらく、安息日律法違反を訴えるためでしょう。

調べてみると、この福音書が著わされた時代(神殿崩壊後の時代)では、ファリサイ派の律法学者が会堂を指導し、律法違反の判決を下していたということです。

イエスの治癒行為が安息日律法違反にならないかを確認するために、ユダヤ教会堂での裁判に判断を委ねようとしたのでしょう。

●14節.イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。

わざわざ「安息日のことであった」とその理由が説明されています。

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2018年9月12日 (水)

生まれつきの盲人をいやす

聖書の箇所は、ヨハネの福音書9章1節から12節です。

この出来事は、調べてみると、冬の神殿奉献祭(イスラエルのマカベア戦争(紀元前167年)の戦勝記念祭(10章22節)の前の秋から冬にかけてのある時期で、シロアムの池からそれほど離れていないエルサレムのどこかであった出来事ではないかということです。 

●1節.さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

「通りすがりに」ですから、その盲目の人は道端に座っていた物乞い(8節参照)であったのでしょう。

●2節.弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

「誰が罪を犯したからですか」と弟子たちがイエスに尋ねます。

古来わたしたちは、当時のユダヤ教もそうですが、近代医学が発達するまでは、病気や身体的障害は罪の結果であると考えていました。

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アブラハムが生まれる前から「わたしはある」

聖書箇所は、ヨハネの福音書8章48節から59節です。

●48節.ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、

8章39節以降の「反対者たちの父」のところでイエスが語られた言葉を聞いて、「イエスを信じるユダヤ人たち」は猛烈に反発しています。

その反発とイエスに対する非難に「お前はサマリア人だ」という言葉が用いられています。

「サマリア人」ですが、ユダヤ教徒がサマリア人と言う場合、異端者と言う意味で軽蔑の意味が込められています。

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反対者たちの父

聖書箇所は、ヨハネの福音書8章39節から47節です。

●39節.彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。

「わたしの父はアブラハム」とは、自分たちはアブラハムの子孫であるから、神がアブラハムとその子孫に与えた契約(約束)を当然受け継ぐ者(創世記17章7節から8節)であると言うことでしょう。

「アブラハムと同じ業・・はずだ」の同じ業とは、アブラハムが神の言葉を信頼して、その言葉に人生のすべてを委ねて歩んだことを指しているのでしょう。

「はずだ」と言うのは、あなたたち現在のユダヤ人がアブラハムの子孫であるならば、アブラハムのように神の言葉を信頼して神の言葉にすべてを委ねて従ったはずだと言うことでしょう。

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2018年9月 9日 (日)

真理はあなたたちを自由にする

聖書箇所は、ヨハネの福音書8章31節から38節です。

●31節.イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。

●32節.あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

当たり前のことですが、すべてのユダヤ人がイエスの言葉を信じていなかったわけではないのです。

それでは、ここで「イエスを信じた」ユダヤ人とはどのようなユダヤ人でしょうか。

33節以下によると、おそらく最後までユダヤ教の枠の中に堅くとどまったユダヤ人信徒を指すのでしょう。

この「イエスを信じたユダヤ人」との対話は、ここから59節まで続きます。

イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに、「もしあなたたちがわたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子であり、真理を知るようになる」と言っておられます。

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わたしが行く所にあなたたちは来ることができない

聖書箇所は、ヨハネの福音書8章21節から30節です。

●21節.そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」

「あなたたち」とは、ユダヤ人を指しているのでしょう。

イエスが「わたしは去っていく」と言われていますが、「去っていく」と言われたのは7章33節と二度目です。
今度は「あなたたちはわたしを捜すだろう」ともいわれます。

そうですね。イエスは光と命の領域から来て、再びその領域に帰って行かれる方です。

「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」は、光と命の領域に行けるのはその領域に属する方だけです。

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イエスは世の光

聖書箇所は、ヨハネの福音書8章12節から20節です。

●12節.イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

イエスは「祭りの最終日である大祭の日」の出来事に続き、再び群集に語りかけられます。

「わたしは世の光である」ですが、ヨハネは二元論の考え方でイエスの言葉を借りて語っているのでしょう。

二元論とは、この世界には別の原理で構成される光と命の領域と闇と死の領域という、二つの領域があることを前提にして人間の救済を語る思想です。

闇と死の領域はサタンが支配する領域で、光と命の領域は神が支配する領域です。

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2018年9月 6日 (木)

わたしもあなたを罪に定めない

聖書箇所は、ヨハネの福音書8章1節から11節です。

●1節.イエスはオリーブ山へ行かれた。

イエスはオリーブ山で野宿して、イエスは朝早く神殿の境内に行かれたのでしょう(次節)。

オリーブ山はイエスの祈りの場でもあったのではと言うことです。

●2節.朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。

●3節.そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、

「姦通の現場で捕らえた女をつれてきて・・」ですが、姦通の罪ならば姦通を犯した男も女も悪いと思いますが、女のみをつれてきたのはなぜでしょうか。

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ユダヤ人指導者たちの不信仰

聖書の箇所は、ヨハネの福音書7章45節から52節です。

●45節.さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。

「下役たちが戻ってきたとき」ですが、「下役の者たち」(神殿警護の役人)はすでにイエスを逮捕するために派遣されていました(7章32節)が、彼らはイエスを逮捕しないで戻ってきました。

そこで「祭司長たちやファリサイ派の人々は、」は「どうして、あの男を連れてこなかったのか」と詰問します。

●46節.下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。

イエスを逮捕しないで帰ってきた理由として、「あの人のように話した人」で、すなわち、下役の者たちは、イエスが仮庵祭で聖霊に満たされて、「権威ある者として」(マルコの福音書1章27節)語られるそのカリスマに圧倒されたからということでしょう。

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2018年9月 4日 (火)

群集の間に対立が生じる

聖書箇所は、ヨハネの福音書7章40節から44節です。

●40節.この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、

「あの預言者」とは誰を指すのでしょうか。

おそらくそれは、申命記18章15節の「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」を指しているのではないでしょうか。

●41節.「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。

「メシアはガリラヤから出るだろうか」ですが、当時のユダヤ人にとって、ガリラヤは最近になってユダヤ教化された異教の地であって、「異邦人のガリラヤ」と呼んでいました(マタイの福音書4章15節)。

そのような地域から救い主メシアが出るとは考えられていなかったのです。

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生きた水の流れ

聖書箇所は、ヨハネの福音書7章37節から39節です。

●37節.祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」のこの祭りとは「仮庵祭」のことですが、以下解説書には次のようにありました。

仮庵祭は、出エジプト後の荒野の旅を覚えるために、木の小枝で造った仮設の小屋で七日間過ごすという歴史的記念祭儀で(レビ記23・34~43)、同時に農業祭儀として、秋にその年の収穫を神に感謝し、それ以後の雨乞いを兼ねた祭儀であったということです。

神殿では毎日シロアムの泉から汲んだ水を祭壇に運ぶ行列が行われ、人々は四種の木の枝をかざして賛美を歌って行進していました。

また、期間中神殿には常に燈火が灯されたので、仮庵祭は光と水の祭りとしての性格をもっていました。

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2018年9月 1日 (土)

下役たち、イエスの逮捕に向かう

聖書箇所は、ヨハネの福音書7章32節から36節です。

●32節.ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。

「祭司長たちとファリサイ派の人々は、・・下役たちを遣わした」というのは、フワリサイ派の人々が、群衆がイエスについてささやいていることを聞いたので、祭司長たちとともに「下役たち」、すなわち神殿警備の役人(警察に相当)を、イエスを捉えるために派遣することになったと言うことでしょう。

その様なことができるのは、最高法院で権力をもつ「祭司長たちとファリサイ派律法学者たち」であるということでしょう。

いよいよ、イエスを殺そうとする計画が実行に移されます。

●33節.そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。

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この人はメシアか

聖書箇所は、ヨハネの福音書7章25節から31節です。

●25節.さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。

「エルサレムの人々」とは、7章20節にあるように、訳も分からずイエスを悪霊つき呼ばわりした群集とは違い、エルサレムの住民でユダヤ教指導層の意向をよく知っている人々、つまり、ユダヤ教指導層がイエスを殺そうと狙っていることを知っていたので、公然とユダヤ教指導層と対立するイエスに驚いたのだと思います。


●26節.あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。

「あんなに公然と話しているのに何も言われない」というのは、権威のあるイエスの言葉に議員たちは圧倒されて言葉を失ったのでしょう。

神の思いがこもった言葉には、真理を語る言葉には力があります。

なお、「議員たち」はユダヤ教社会では、ふつう最高法院の議員を指します。

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