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2018年8月の記事

2018年8月31日 (金)

仮庵祭でのイエス

聖書箇所は、ヨハネの福音書7章10節から24節です。

●10節.しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。

「人目を避け隠れるようにして」、イエスは祭りのためエルサレムに上って行かれたのです。

祭りに行かないといっていたのに行かれたのはなぜでしょうか。

調べてみますと、行かれなかったのは、イエスに敵対する勢力が殺し屋を雇って、密かにイエスを殺そうと狙っていたのをイエスはご存じであったので行かれなかったのですが、夜がふけて道中で待ち伏せしている殺し屋があきらめて帰ったことが透視で分かったからとしています。

こうして闇にまぎれてエルサレムに上られたイエスは、もう二度とガリラヤに戻られることはありませんでした。

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イエスの兄弟たちの不信仰

聖書箇所は、ヨハネの福音書7章1節から9節です。

この話は、イエスの故郷ガリラヤでの話と思います。

ガリラヤはイエスが幼少期を過ごし、父であるヨセフが大工の仕事をしていたところです。

イエスが育ったガリラヤは、かつてイスラエル王国の北方にあった荒地で、南北イスラエル時代には、ほとんど人は住んでいなかったそうです。

後年になって、ユダ王国の純潔ユダヤ人が移植させられて住み始めたということです。

●Ⅰ節.その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。

「その後」ですから、パンの出来事の後ということでしょう。

「ユダヤ人が殺そうと狙っていた」の狙っていた理由は、イエスがベトザタの池で安息日に病人を癒されたので、「ユダヤ人」すなわちユダヤ教指導者層は安息日律法の違反でイエスを殺そうと狙って(5章18節)いたということでしょう。

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永遠の命の言葉

聖書箇所は、ヨハネの福音書6章60節から71節です。

●60節.ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」

「聞いていられようか」は聞くだけではなく、聞いて従うと言う意味にとるべきだということです。

「実にひどい話だ」ということは、荒唐無稽でとても理解できないし、受け入れられない話だということでしょう。

そして、この言葉が何を指しているかですが、それは、「命のパン」についてのイエスの話しを指しているのでしょう。

イエスを神の子と信じないユダヤ人にとって、「わたしは天から降ってきた命のパンである」(6章51節)とか、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6章54節)などイエスの言葉は受け入れがたいし、理解できない言葉です。

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2018年8月26日 (日)

イエスは命のパン(3)

聖書箇所は、ヨハネの福音書6章22節から59節です。

長いので三回に分け(3)は、45節から59節までです。

●45節.預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。

『かれらはみな神によって教えられる』とは、彼らとはユダヤ人であり、彼らは皆神によって預言者を通して教えられるということでしょう。

「父から聞いて学んだ者は皆」というのは、旧約聖書の預言書を読み学んだものは皆ということでしょう。

預言書は父なる神の秘められたご計画とか教え、真理なるものを暗示しているから、預言書はその様に読み学ぶものだと言うことでしょう。

そして、何を学ぶかは、もちろん、イエスについてです。

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イエスは命のパン(2)

聖書箇所は、ヨハネの福音書6章22節から59節です。

(2)は、34節から44節までを読みます。

●34節.そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、

「主よ」という呼びかけの言葉は、解説によれば、これは復活されたキリストに対する尊称ではなく、偉大な宗教的指導者に対する尊称だということです。

群集はイエスをラビ、つまり、律法の教師程度にしか見ていなかったということでしょう。

ということは、群集にはイエスが言われる「命のパン」の意味が分かっていないということです。

群集は、物質的なパン、すなわち食べ物を求めていたのです。

●35節.イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

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イエスは命のパン(1)

聖書箇所は、ヨハネの福音書6章22節から59節です。

長いので三回に分け(1)は、22節から33節までを読みます。

ここではパンの出来事を「しるし」として、その「しるし」がイエスに到来している霊的現実を明らかにして、イエスとの対話という形で著者が(ひいてはヨハネ共同体が)世に語りかけている福音であり説教だと思います。

●22節.その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。

パンの出来事があった日の夕方には、弟子たちは舟に乗って出発しています(16節)。

「その翌日」に「海の向こう岸に残っていた群衆は」弟子たちだけが先に出かけたことに気づいた」のです。

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2018年8月24日 (金)

湖の上を歩く

聖書箇所は、ヨハネの福音書6章16節から21節です。

●16節.夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。

「弟子たちは湖畔に下りていった」ですが、マタイとマルコの福音書の並行個所は、「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、先に行かせた」とあります。

この表現の違いは見る角度の違いが原因で、どちらの見方も正しいのだと思います。

共観福音書はイエスの視点から、ヨハネの福音書では弟子の視点からということでしょう。

●17節.そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。

15節にはイエスは群集を避けるために「ひとりでまた山に退かれた。」とありますから、弟子たちは、舟に乗って海の向こう側のカファルナウムに自分たちの住まいがあったので、そこに行こうとしたのでしょう。

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五千人に食べ物を与える

聖書箇所は、ヨハネの福音書6章1節から15節です。

●Ⅰ節.その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。

「その後」とは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた二回目のしるしののちと言う意味でしょう。

「ティベリアス」は、紀元20年にガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスがティベリウス帝を記念してガリラヤ湖西岸に建設したローマ風の都市ということです。

ヨハネの福音書では、カナやカファルナウムがある西岸から向こう側の東岸に渡り、そこでパンの奇跡が行われ(1節から15節)、その後再び西岸のカファルナウムに渡るときに水の上を歩くイエスの顕現があり(16節から21節)、到着したカファルナウムで命のパンについての対話がなされたことになります(22節から25節)。

共観福音書とは、奇跡が行われた場所とか順序が違うようです。

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2018年8月22日 (水)

イエスについての証(2)

聖書箇所は、ヨハネの福音書5章31節から47節です。

(2)では39節から最後まで読みます。

●39節.あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。

ここで「聖書」とあるのは、原文では「書かれたもの」(複数形)ということです。

もちろん、この「聖書」は旧約聖書のことですが、この頃はまだわたしたちが手元に持っているような旧約聖書の正典は確定していませんでした。

当時ユダヤ教の聖典として確定していたのは、「トーラー」(モーセ五書=旧約聖書の最初の五書)と「預言者」だけと言うことです。

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イエスについての証(1)

聖書箇所は、ヨハネの福音書5章31節から47節です。

二回に分けて(1)では38節までを読みます。

●31節.「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。

「自分自身について証をするなら」ですが、イエスはご自分のことを、「父から遣わされた子である」と自分自身で証していますが、そのことについてユダヤ人から、「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」(8章13節)と言われていますから、その批判に応えるためにこのように言われたのでしょう。

「わたしの証は真実ではない」とは、人が自分で自分を証するのは信用できないというのが、ユダヤ教における原則ですから、イエスもそれを認めておられるのでしょう。


●32節.わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。

「わたしについて証をなさる方は別におられる」の別におられるのはだれを指すかですが、それは、洗礼者ヨハネを指しているのだと思います。

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2018年8月20日 (月)

御子の権威

聖書箇所は、ヨハネの福音書5章19節から30節です。

●19節.そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。

イエスはいつも重大なことを語るときに用いられる「はっきり言っておく」と前置きして16節のユダヤ人たちの追及に答えられます。

「自分からは、何事もできない」と、イエスは自分一人では何もできないとはっきり言われています。

「子もその通りにする」というのは、父のなさることを見なければ子は何事もできない。子は父がなさることはなんでもその通りにする、と言うことでしょう。

いわゆる、父と子は一体なのです。

もちろん、しるしとか奇跡もその中に入るのでしょう。

裁きも父が伝えてくださるとおりそのまま裁くといっておられるのです。

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2018年8月18日 (土)

ベトササダの池で病人をいやす

聖書箇所は、ヨハネの福音書5章1節から18節です。

●Ⅰ節.その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。

ユダ人の祭りは、調べてみると年に三つと言うことです。

祭りにはユダヤ人(離散して地方にいているユダヤ人も含めて)はエルサレムの神殿に詣でる(巡礼)ことを義務づけられています。

祭りは、過越祭、五旬節、仮庵祭の三つということです。

ここで言われている祭りが、どの祭りを指すかはわかりません。

●2節.エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。

「羊の門」とは、神殿の北東にある門で、捧げものとして犠牲になる羊が通る門です。

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2018年8月16日 (木)

役人の息子をいやす

聖書箇所は、ヨハネの福音書4章43節から54節です。

●43節.二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。

「二日後」、イエスはサマリアの町に二日間滞在されました。(4章40節)。

●44節.イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある

「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」ですが、共観福音書では、ガリラヤとかナザレがイエスの故郷とされています。

それに対して、ヨハネの福音書ではユダヤがイエスの故郷として扱われています。

なぜ違うのかですが、イエスはナザレの育ちであるのはどの福音書も異論はないと思いますので、著者ヨハネは、イエスの故郷を生まれたところではなく、ユダヤ人としての故郷、つまりエルサレムを故郷としているのだと思います。

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イエスとサマリアの女(3)

聖書箇所は、ヨハネの福音書4章1節から42節です。

ここでは、30節から42節までを読みます。

●30節.人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

●31節.その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、

「その間に」というのは、「女」が町へ行って、人びとにイエスのことを告げ知らせ、町の人々がイエスのもとにやってくるまでの間と言うことでしょう。

31節から38節のイエスの弟子の会話はその間の出来事になります。

●32節.イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。

「わたしには」と強調して言われています。

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2018年8月13日 (月)

イエスとサマリアの女(2)

聖書箇所は、ヨハネの福音書4章1節から42節です。

(2)では、17節から29節までを読みます。

●17節.女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。

●18節.あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」

「五人の夫がいた」とイエスは言われた。イエスは女性の過去の生活をすべてご存知であったのでしょう。

「今連れ添っているのは夫ではない」というのは、今一緒に生活している男性は正式に結婚している者ではないということでしょう。

すなわち内縁関係の男性ということですが、それにしてもイエスは、そのような関係を非難されてはいません。

イエスはこの世の制度とか風習を決して非難されていません。

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イエスとサマリアの女(1)

聖書箇所は、ヨハネの福音書4章1節から42節です。

投稿文は長くなりましたので三回に分けます。

(1)では,16節までを読みます。

サマリアは異邦人に侵略されたことで、混血のユダヤ人が多く住んでいましたので、生粋のイスラエル人は軽蔑していました。

ガリラヤはイエスの故郷で、イエスは幼少時代を過ごされました。

したがって、イスラエル人は、ガリラヤとユダヤを往復する場合は、サマリア地方を迂回して行き来していたと言うことです。

ここに出てくるサマリアの女は夫を五人も変えています。

自堕落な女と言う見方がありますが、律法に違反しているわけではありません。

それに、当時の男権社会を考えると、女性が一人で生きていくのは厳しい状況であったと思いますので、生きていくためには、夫が変わるのもある面やむをえないことであったのかも知れません。

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2018年8月11日 (土)

天から来られる方

聖書箇所は、ヨハネの福音書3章31節から36節です。

●31節.「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。

「上から来られる方」、「天から来られる方」がイエスを指すとすれば、イエスは「すべてのものの上に」おられるかたとなりますが、この「すべて」という語句は、「すべての者」あるいは「すべての物」とも訳すことができないので、両方の意味をこめて「すべてのもの」と訳されているそうです。

こうして、「上から来られる方」であるイエスは、洗礼者ヨハネを含め、どのような預言者や学者や知者をも超える方であることが主張されています。

「地から出る者は地に属し」ですが、この文は、前半の「上からの者」イエスと、イエス以外のすべての人物を対比しているのでしょう。

「地から」は、「上から」すなわち「天から」と対比しているのでしょう。

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イエスと洗礼者ヨハネ

聖書箇所は、ヨハネの福音書3章22節から30節です。

●22節.その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。

「その後」ですから、イエスは過越祭のエルサレムでの活動の後、すなわち、巡礼に来たユダヤ人は過越祭の期間中はエルサレムに留まるよう律法に定められていました。

ですから、イエスも祭りが終わってから、エルサレムを去り「弟子たちとユダヤ地方に行って、」弟子たちと共にそこに滞在して、水で洗礼を授けられたということでしょう。

「ユダヤ地方」は、パレスチナ南部の地域で、エルサレムがその中心都市です。

イエスは弟子たちを連れて、エルサレムからヨルダン川に下って行き、そこで人々に洗礼を授ける活動をされます。

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2018年8月 8日 (水)

イエスとニコデモ(2)

聖書箇所.ヨハネの福音書3章1節から21節の後半12節からです。

●12節.わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。

「地上のこと」は、イエスは地上におられたときに、奇跡を起こし、しるしや教えを語られましたが、そのことの意味すら分からないのに、「神の国」のことを語っても信じる事ができないだろうということでしょう。

「天上のこと」は、「神の国」のこと、つまり霊界のことです。

イエスは神の国のことを語るためにこの地上に来られました。

それは、「神の国」のこと、つまり霊界のことを知っておられ、それを地上で啓示する方であるからです(13節)。

結論として、12節のこの言葉になるのです。

それはそうと、イエスは「わたしが」と単数形でご自分のことを語っておられます。

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イエスとニコデモ(1)

聖書箇所は、ヨハネの福音書3章1節から21節です。

長いので二回に分けます。(1)では11節までを読みます。

●1節.さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。

「ファリサイ派」とは、一言で言うと律法に忠実なユダヤ教徒の一波を指し、律法の専門家です。

なお、律法とは本来モーセ五書(創世記から五書)がそれなのですが、必要に応じて後に生まれた口頭伝承を含めてその権威が認められていました。

霊的存在は肯定も否定もしていないと言うことです。

「サドカイ派」とは、モーセ五書、いわゆる律法のみを聖典とする一派です。口頭伝承の権威は否定していました。

霊的なものが存在する事は信じていなくて、復活も天使も存在しないという立場の一派です。

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2018年8月 6日 (月)

イエスは人間の心を知っておられる

聖書箇所、ヨハネの福音書2章23節から25節です。

●23節.イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。

「過越祭の間エルサレムにおられた」ですから、この祭りの期間中は、巡礼のユダヤ人たちはエルサレムに留まることになっていたのです。

イエスもその様になさったのでしょう。

「しるしを見て・・信じた」とわざわざ書いているのは、教えの真意もわからないのにしるしのみで信じたということです。

この「しるし」と言う語句は複数形だと言うことですから、複数のしるしをお見せになったということです。

根の無い信仰はすぐにかれてしまいます。

奇跡とかしるしだけでは本物の信仰は育たないのでしょう。

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神殿から商人を追い出す

聖書箇所は、ヨハネの福音書2章13節から22節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書21章12節から13節、マルコの福音書11章15節から17節、ルカの福音書19章45節から46節です。

ここでは共観福音書と相違しているところに注意して読んでみたいと思います。

●13節.ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。

共観福音書と違ってヨハネの福音書では、「過越祭が近づいた」ことが三回(ここと6章4節と11章55節)書かれています。

ということは、イエスは三回過越しの祭りのときにエルサレムに行かれていると言うことです。

また、過越祭は年に一回ですから、公生涯は少なくとも二年から三年に及んだことを意味しています。

共観福音書は過越祭にエルサレムに行かれたのを最後の一回のみ書いているようです。

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2018年8月 1日 (水)

カナでの婚礼

聖書箇所は、ヨハネの福音書2章1節から12節です。

●Ⅰ節.三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。

カナは新約聖書ではヨハネ福音書だけに出てくる地名で、その所在は現在では確定できていないそうです。
ガリラヤ湖から西へ約20キロのところにあったと見られています。

この奇跡はイエスがなされた奇跡で、初めてのものと言われています。

そうするとイエスの弟子になった人々は、この奇跡の後で弟子になったのですから、イエスの奇跡を見ないで弟子になったと言うことになります。

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フィリポとナタナエル、弟子となる

聖書箇所は、ヨハネの福音書第1章43節から51節です。

●43節.その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。

今度はフィリポの召命です。

「その翌日」と簡潔な書き出しとなっていますが、マルコの福音書1章14節では同じ個所を「ヨハネが捕られた後」ガリラヤへとし、マタイの福音書4章12節は「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き」とし、洗礼者ヨハネの投獄をガリラヤ行きの前において、ガリラヤ行きの動機としています。

この場所は、「ヨルダン川の向こう側のベタニア」(28節)の周辺か、ガリラヤへの途上であると思います。

イエスは、そこでフィリポを見つけて、ついて来るように召されました。

おそらく、フィリポも彼の仲間のナタナエルも洗礼者ヨハネの弟子であったと思います。

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