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2018年7月17日 (火)

一番偉い者(ルカ22章)

聖書箇所は、ルカの福音書22章24節から30節です。

共観福音書の参考個所は、マルコの福音書10章35節から45節(ヤコブとヨハネの願い)、マタイの福音書20章20節から28節(ヤコブとヨハネの母の願い)です。

●24節.また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。

イエスが死を覚悟してエルサレムに向かわれたとき、弟子たちはイエスが神の右の座に着かれた際、イエスによる神の支配の実現を期待し、その御国において自分たちも高い地位に着くことを願っていました。

そのことを語る個所は、このルカの福音書においては最後の晩餐のところに、マタイの福音書とマルコの福音書ではエルサレムに向かう旅の途上、エルサレムに入る直前に置かれています。

マルコの福音書の「ヤコブとヨハネの願い」のところでは、ゼベダイの子のヤコブとヨハネの名をあげて、同人らがイエスに御国での高い地位を願い出たことに対して他の弟子たちが腹を立てたのでイエスが語り出された(マルコの福音書10章35節から41節)となっています。

マタイの福音書では、ゼベダイの子のヤコブとヨハネの代わりに「ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒に」(マタイの福音書20章20節)イエスに願ったことになっています。

このルカの福音書は、ヤコブとヨハネの名をあげないで、「使徒たち」の間での議論としています。

ルカとマタイとマルコそれぞれ表現方法は違いますが、自分たちの高い地位を求めているのは同じです。

●25節.そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。

イエスは、弟子たちの間で誰が一番偉いかなどと議論をしているのを聞いて、弟子たちの思い違いを指摘され、ご自分が去った後の心構え(26節以降)を述べられますが、その前にこの世の権力による支配関係を述べられます。

それは所有欲と権力欲による支配です。

●26節.しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。

この世の支配原理に対して、イエスは「しかし、あなたがたはそれではいけない」と言って、神の支配がまったく別の原理、つまり、「偉い者」とは、上に立って力で支配する者ではなく、下にいて人に仕える者であると言われるのです。

イエスは、こうしてこの世界の構成原理と神の国の構成原理を対比させて、神の支配の構成原理を述べられます。

もちろん、この世で神の支配の構成原理が求められているところはキリスト者の共同体であり、キリスト教会そのものです。

この世界では多く支配する者が価値ある者ですが、神の国では多く仕える者が価値ある者なのです。この世界と神の支配の場では価値観が180度逆転するのです。

●27節.食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。

ここでは支配原理を説明するのに、具体的な実例を上げて語られます。

イエスはまず「食事の席に着く人と給仕する者」どちらが偉いかと問われます。

この世の支配原理では当然横になって食事の席に着いている人が、給仕する者よりも偉いとされます。

このように言ってからイエスは「しかし」と言って、ご自分を「給仕する者=仕える者」だと言われたのです。

ヨハネの福音書はこの「仕える者」を13章1節から20節「弟子の足を洗う」イエスの姿で描いています。

●28節.あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。

●29節.だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。

「わたしが種々の試練に遭った」の試練とは、おそらくユダヤ教支配層からお受けになった迫害を指しているのだと思います。

「一緒に踏みとどまった者たち」とは、権力とか所有欲を放棄し、イエスと寝食を共にして神の国を告知する為に働き、イエスが受ける迫害をイエスと共に受けながら最後まで仕えた弟子のことでしょう。

その弟子たちに「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。」と言われています。

それでは、「父がわたしに支配権をゆだねて」の支配権とはどのようなものでしょうか。それは30節にあります。

●30節.あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」

29節でイエスは「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。」と言われました。

受け継がせる内容は二つあり、そのうちの一つは、「わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし」ということで、もう一つは「王座に座ってイスラエルの十二部族を治める」ということです。

前者は他の福音書に参考記事はありませんが、後者はマタイの福音書19章28節に、「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」とあります。

基本的な内容は同じですが、よくわからないので調べてみると、「わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし」という表現はユダヤ教の黙示思想の表現だと言うことです。

イエスはやがて来る神の支配を饗宴の比喩を用いて語っておられるのです。

そしてイエスは、実際の食卓を神の支配の現実を表す象徴行為としておられるのです。

すなわち、イエスは徴税人や娼婦などユダヤ教社会では罪人として疎外されている人々と食卓を共にして、そのような人たちこそ神の国に招かれているのだと、神の恩恵の支配を行為で指し示されたのでしょう。

「わたしの食事の席に着く」ということは、イエスが支配される場でイエスの兄弟として十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治める」ということでしょう。

何れにしても、終わりの日の裁きの時(栄光の時)のことを言っておられるのでしょう。

そして、その終わりの日の栄光の時をもう一つの象徴で語られます。

それが、「あなたたちは王座に座ってイスラエルの十二部族を治めるであろう」ということです。

当時のユダヤ人は、神がイスラエルを回復される終わりの日には、アッシリアに滅ぼされた北王国の「失われた十部族」が「河の彼方から」帰ってきて、イスラエル本来の十二部族が神の民として世界に君臨すると考えていました。

イエスはイスラエルの十二部族回復の待望を、終末待望を象徴的に表現する行為として、同じ数の十二人の弟子を選び、ご自身の弟子団を形成されたのだと思います。

ですから、ここで象徴的に使われている十二部族は、なにもイスラエル民族の古い十二部族の再形成を表すのではなく、イエスによる十二人の弟子団の形成、つまり、古いイスラエルの十二部族に代わる新しい神の民の形成をあらわす象徴行為であると思います。

このように考えると、この「十二人」の弟子団、ひいては弟子団の後継者である代々の使徒(聖職者のなるのでしょうか)が、キリスト者である新しい神の民(キリストの民、教会の信徒)を「治めるであろう」と言うことだと思います。
ただし、この治めると言うのは支配することではないと思います。

支配するのはあくまで「人の子が彼の栄光の座に着く時」に実現する終末的事態ですから、地上のキリスト共同体の支配体制を予告するものではないと思います。

なぜならば、26節に書いたように、地上の歴史におけるキリスト共同体の構成原理は、この世界の構成原理とはまったく別の原理で構成される共同体、つまり、先にイエスが言われた(26節)ように権力による支配・被支配の関係ではなく、仕える者たちの共同体であることを忘れてはいけないと思うのです。

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