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2018年7月 8日 (日)

重い皮膚病を患っている十人の人をいやす(ルカ17章)

聖書箇所は、ルカの福音書17章11節から19節です。

共観福音書の並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

●11節.イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。

イエスはこの地上での最後の旅、エルサレムへ上られる途上、サマリアとガリラヤの間を通られました。

●12節.ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、

●13節.声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。

「重い皮膚病」とあるのは、ユダヤ教において祭儀的に不浄とされる皮膚病のことでしょう。

祭司からこの皮膚病だと宣告された者は、一般社会から隔離された場所で暮らし、神殿祭儀に参加することは許されず、一般の人が近づいたときは自分で自分のことを「汚れた者」と叫んで、その存在を知らせなければならなかったということです(旧約聖書レビ記13章から14章)。

これは現代風に言えば、伝染を避けるための隔離であったのですが、ユダヤ教社会では祭儀的に不浄とされ、「神から打たれた者」として徹底的に疎外されたそうです。

ユダヤ教では、死人を生き返らせることとこのような皮膚病を清めることができるのは、神だけだとされていましたから、イエスがこの皮膚病の人を「清めた」出来事は、死人を生き返らせた場合と同じで、重大な意味をもつ出来事であったということです。

だから、重い皮膚病にかかった十人の人も、律法の規定に従ってイエス一行に近づくことなく、「遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて」、イエスに助けを求めたのでしょう。

と言うことは、彼らはイエスが神の力によって病人をいやしておられることを知っていたと言うことになります。

観福音書の並行個所との違いは、ルカの福音書の5章12節12節とかマルコの福音書1章40節は、「あなたの御心であれば、あなたはわたしを清くすることがおできになります」と言って、イエスの力を信じて、イエスの意志を訊ねています。

悲壮感はなくまだ余裕があります。

はマタイとかマルコの福音書を参考にしていますが、厳しい言い方を少し和らげて表現するところがあります。

それに対して、ここでは病人はイエスの力を信じて来ているのは同じですが、イエスの意思を問題にするゆとりはなく、ひたすら憐れみを懇願しています。

憐れみを願うのは、もう自分には余裕がない、癒してもらう資格もないことを認めて、イエスの憐みにすがる姿勢です。

本来信仰とはそういうものなのでしょう。

●14節.イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。

ここではほかの個所のように、病人に手を置くとか、清くなれと言われるのではなく、ただ「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と命じられただけで、その途上で清くされました。

いやされた者はいやされたところを祭司に見てもらって、確認してもらい清めの儀式を行って始めて「清い者」となります。

そうして初めてユダヤ教社会の交わりに復帰できるのです。

よく考えると、彼らがもし自分の病状を見て、まだ自分の皮膚病はいやされていないから祭祀のところに行っても仕方ないとか、何らかのイエスのいやしの行為とか言葉がなければいやされないと思って祭祀のところに行かなければ、おそらく、彼らは清められなかったでしょう。

しかし、彼らはイエスがそう言われたのだからという理由だけで、症状も変わらないのに、祭司のいるところに向かって歩き始めたのです。
彼らは、イエスの言葉を信じて疑わず歩いて行きます。

この行動が信仰ということでしょう。

イエスは彼らに「祭司に見せよ」と命令しています。

ということは、イエスはユダヤ教、あるいは社会制度を否定されてはいません。

もちろん、イエスのいやしは祭祀の清めの儀式がなくてもいやされます。

しかし、人間の社会制度を否定せずに相対化してその様にするように勧められたのです。

彼らは病が癒されてもユダヤ教社会で生きていかなければなりませんから、それは必要なことであったでしょう。

言い換えれば、イエスはわたしたちにどのような社会であってもその中で生きなさいと言われているのです。

だから、どんなに間違った社会でも、そこから逃げ出すのではなく、その中でどのように生きるかを問題とされているということになります。

●15節.その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。

●16節.そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。

いやされた十人の中の一人が、「自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら」戻って来たのですが、後の九人はどうしたのでしょうか。

それに、いやされて戻ってきた人は、祭司のところまで行って体を見せ、いやされていることを確認してもらってから清めの儀式を経て戻ってきたのでしょうか。

何も書いてありません。清めの儀式には相当時間がかかるはずです。(レビ記の規定では確認に数週間、清めの儀式に一週間)。

●17節.そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。

●18節.この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

●19節.それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

イエスのもとに戻ってきたのはサマリア人一人で、あとの九人は帰ってこなかったのです。

言えることは、サマリア人は純粋のユダヤ人ではないので、イスラエル人から蔑視されていましたが、イエスにいやされたのは確かでしょう。

それにサマリア人は純粋のユダヤ人ではないので、異邦人がいやされたことになります。印象的ですね。

ルカの福音書は、ローマの人々、とくに異邦人信者のために書いていますので、このような記述になったのでしょうか。

イエスは帰ってきたサマリア人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。

イエスはサマリア人に、ユダヤ人社会の中で生きなさいと言われたのです。

神のみ業を身をもって経験しても召命されたわけではないのです。

人にはそれぞれ役目があると言うことでしょう。

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