律法と神の国(ルカ16章)
聖書箇所は、ルカの福音書16章14節から18節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書11章12節から13節です。
●14節.金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。
「この一部始終」とは、「不正な管理人」のたとえ(ルカの福音書16章1節から13節)の中でイエスが話されたことでしょう。
そこでイエスは、弟子たちに世の富の性質と用い方を説かれました。
それを聞いていたファリサイ派の人々が、「イエスをあざ笑った。」のです。
彼らは「金に執着する」者たちであったので、イエスが弟子たちに説かれた富に対する心構えではなく、神に仕える生き方を嘲笑したのです。
●15節.そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
彼らが律法に熱心なのは、周囲の人々に自分の義(神に忠実だということを)を見せびらかすためなのです。
それは見かけだけのものですから、心の中においては自己愛からくる虚栄心とか自尊心を指しています。
イエスはそのことを見抜いておられます。だからイエスは、「神はあなたたちの心をご存じである」と言われたのでしょう。
「人に尊ばれるもの」というのは、この世の「富」を指しているようにも見えますが、「神は心を見られる」のですから、神が忌み嫌われるものはこの世の富そのものではなく、富によって人から尊ばれることを求める人間の心(虚栄心)であり、人から尊ばれることで自分が価値ある者だとする傲慢であり、人に尊ばれるために「人に自分の正しさを見せびらかす」偽善だと思うのです。
虚栄心と傲慢と偽善の三つが神が最も嫌われることです。
富そのものは、この世を生きていくためにはなくてはならないものです。
そういうものを得ようと努力することは、神は否定されていません。
もちろん、必要以上の富は自分の心を失わせその人を傲慢にしますから気を付けなければなりません。
●16節.律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。
ここはマタイの福音書(11章12節から13節)に並行記事があります。
マタイの福音書の並行個所と比較して見ますと、マタイの12節に「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」、13節「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」とあります。
なお、ここで「律法と預言者」と言っているのは、この当時はまだ今のような形の旧約聖書はなく、律法と預言書だけが一応出来上がって聖典として確定していたからだと思います。
また、「彼が」の彼は洗礼者ヨハネのことを指しているのでしょう。
そうすると、洗礼者ヨハネの活動を分岐点にして、「まで」が律法と預言者の時代、「から」が「天の国が力ずくで襲われて・・」それを奪い取ろうとしている」時代となります。
「力ずくで襲われている」とあるのはどのような意味なのかを調べてみると、この動詞は「暴力をふるう」という動詞の受動態で「暴力を受ける」という意味だということです。
襲われているのは「天の国」(神の国)で、その天の国に何者かが「力ずくで入ろうとしている」と言うことになります。
まとめてみると、「彼(洗礼者ヨハネ)が活動し始めたときから今に至るまで」、すなわちイエスの時に至るまで、「神の国」を告知する活動は激しく暴力的に攻撃されており、その者が洗礼者ヨハネやイエスが告知する神の国を民から奪い取っている、という意味ではないかと思います。
「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとして」とか「力ずくで入ろうとしている」というように非常に激しい言葉が使われていますが、これは、これらの福音書が書かれたのは、一世紀末の頃ですから、イエスの「神の国」の福音は多くの異邦人にも告知されて、ユダヤ人キリスト者の中に異邦人(ユダヤ人以外)がどんどん入ってきている時代で、
そのキリストの共同体に入ろうとする異邦人の中にもサタン(悪魔)の回し者のような偽物が信者の信仰を惑わし、組織を壊すために「神の国」である教会(キリスト共同体)に強引に入ろうとしている状況があると思うのです。
キリスト信仰共同体が信仰を、組織を守るのに危機感を持ったからその様な厳しい表現になったのではと思うのです。
聖書には「神の国」は無条件の恩恵の支配であるから悔い改めれば誰でも入ることができると教えている面と、「神の国」に入ることの難しさを教える面があります。
その矛盾はどのように理解すればよいのかですが、このような当時のキリスト教会(キリスト共同体)の現実を見ると、現在でも同じなのだと思うのですが、神の支配は恩恵の支配ですから誰でも「神の国」に入れるのですが、そうすればどうしても偽物が、
あるいはしっかりとして信仰を持っていない者が混じることになるので、そういうところに悪魔の攻撃もあり信仰を惑わす者が出てくると、または、迫害とか艱難に遭遇すると信仰を全うすることは非常に困難になる人々も出てくると思うのです。
わたしは、最終的には全ての人が「神の国」に入ると思うのですが、先に救われた人びとは、サタンの支配するこの世に神の支配の場(キリスト者の共同体、教会)を広げようとするのですから、迫害とか艱難のなかで福音を広め、信仰を守り抜くことの戦いは困難を極めると言っておられると思うのです。
現実のキリスト教会の歴史はそのことを物語っています。
●17節.しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。
16節では、律法はヨハネの時までであり、その後イエスによって神の国が福音されていると宣言した後にこの聖句が置かれています。
洗礼者ヨハネの時まではユダヤ教律法は有効であったが、イエスによって「神の国」の福音が告知されている今は、もはや律法は必要がないと言うのではなく、律法が永遠に有効であることを宣言しています。
マタイの福音書はユダヤ人の信者あてに書かれていますから、この言葉はわかるのですが、異邦人あてに書かれているルカはどういうつもりでこの言葉をここに置いたのでしょうか。
次のような理由が挙げられています。
ルカは異邦人読者に理解されやすいように変更を加えていると見受けられる個所がありますが、歴史家として実際にあったことを正確に記録することに忠実であると思うのです。
あるいは、外部からの共同体への攻撃(迫害とか艱難)、偽信徒からの攻撃から組織をまもるためにユダヤ教の律法がもつ高い倫理性を活用して強調したのではないかと思うのです。
●18節.妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」
ルカの福音書はローマの人々に書かれた面があります。
その異教のローマ社会では、性道徳は乱れ、離婚はごく日常的な出来事であったそうです。
その中でキリスト者共同体は、 ユダヤ教の性倫理を継承して厳しい姿勢を維持しました(ローマの信徒への手紙1章24節から28節参照)。
この離婚して再婚する行為を姦通の罪とするのは、「神の国」の福音の場でもユダヤ教律法の流れでキリスト者共同体でも厳格に適用されることを主張しているのでしょう。
なお、離婚については、原則的にイエスはあり得ないこととしています(マルコの福音書10章5節から9節参照)。
反面モーセ律法が離縁を認めているその理由をイエスは「イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」と言われています。
しかし、神が支配される場(キリスト共同体とか教会)でも、そのありえない離婚が現実の人間生活では問題として起こってきます。
キリスト共同体に所属する者も、生身の体で現実の世を生きていますから、離婚に至ることもあると思うのです。
わたしたちは神の支配、神の恩恵の場に生きる者として、「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。
従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マタイの福音書19章6節)、とされたイエスの言葉に生きるべきでありますが、神の支配が未完成の現実を生きるわたしたちは、
その神の支配の場以外のところで起こる悲劇とか離婚せざるをえないような事態は、わたしたちの「心が頑固なので」起こるのですから、現実の社会の婚姻関係の定めに委ねざるをえないと思うのです。
天国にいけば、結婚がないのですから離婚もありません。
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