エマオで現れる(1)(ルカ24章)
聖書箇所は、ルカの福音書第24章13節から35節です。
共観福音書の並行個所はマルコの福音書第16章12節から13節(二人の弟子に現れる)です。二回に分けまして(1)では、21節までを読みます。
●13節.ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
●14節.この一切の出来事について話し合っていた。
「ちょうどこの日」というのは、すなわち週の初めの日である日曜日で、女性たちが、墓が空になっているのを見つけた日のことでしょう。
「二人の弟子」はイエスが選ばれた十二弟子以外の弟子と思われます(24章33節参照)。
「六十スタディオン」は、一スタディオンが185メートルということですから約十一キロになります。歩いて約二時間半の距離です。
この二人の弟子はエマオの住民と思われます。
イエスが十字架で亡くなられたので、落胆し故郷へ帰る途中であったのでしょう。
この二人は弟子ですから、過越祭のエルサレムで起こったイエスの出来事は見ていたはずです。
信じていたイエスが十字架上で刑死し、その遺体までなくなっているという事態に失望落胆し、「暗い顔して」(17節)イエスの身に起こったことの意味が理解できなかったのでそのことを議論しながら歩いていたのでしょう。
●15節.話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
●16節.しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
「イエス御自身が近づいて来て」となっていますが、二人の弟子にとってはまだ見知らぬ普通の旅人に過ぎないと思います。
二人の弟子がその旅人がイエスとわからなかったのは、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」としています。
顕現の際の共通のパターンは、復活したイエスに出会う人間は、最初はそれが誰だか分からない。
その出会いは未知との、異次元の存在との出会いですからわからないのも当たり前かもしれません。
普通異次元の存在との出会いの時は、身震いするほどの恐怖を覚えるのですが、「二人の目が遮られていて」、また、イエスは普通の旅人に見える姿で現れたので、二人の旅人は畏怖を覚えていません。
この「二人の目が遮られていて」と説明されているのは、復活のイエスを認識するには、聖霊の働きが必要だということでしょう。
これはどう言う意味かと考えますと、イエスの十字架後の聖霊降臨からは福音伝道の補助者として聖霊は遍くこの地上に満ちて、信じる者に内住してその者を助け導いておられますが、聖霊降臨以前は、聖霊はイエスとともにおられ、イエスと共に働いておられましたから、イエスが働きかけなければ聖霊も働かれないので、二人の弟子は復活のイエスを認識できなかったのだと思います。
イエスの働きかけがないので、二人の弟子は見知らぬ旅人と話をしていると思ってイエスと対話を始めます。
●17節.イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
イエスは二人の会話の内容を知っておられます。
イエスはその出来事の意義を悟らせるために「その話は何のことですか」と問われます。
問われたのは、彼ら自身にそれを語らせようとされたのでしょう。
彼らは「暗い顔をして」立ち止まり語り始めます。
彼らが暗い顔をしていたのは、過越祭のエルサレムで体験したことが、あまりにも彼らを落胆させる出来事であったからでしょう。
●18節.その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
その一人のクレオパという人がイエスの問いに答えました。
クレオパは二人の中で年長者なのか、二人を代表する立場の人でしょう。
クレオパは復活のイエスがエルサレムでのこの数日の出来事(イエスの逮捕から十字架死、そして、不思議な自然現象の異変)を知らないと思って、もちろん、イエスもエルサレムからの旅人だと思って、知らないのに驚きながら答えています。
イエスの十字架死は、それほど誰でもが知っている、知っていて当たり前の大変な事件であったということでしょう。
●19節.イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
イエスは再度彼らに語らせるために「どんなことですか」と問いかけます。
今度は二人でイエスと対話するように答えます。
二人はイエスのことを「行いにも言葉にも力のある預言者」と言っています。力があるというのは、病人を癒したり悪霊を追い出したりする多くの力ある業(奇跡)を指しているのでしょう。
また、言葉において力あるとは、その語る言葉に圧倒的な権威があったことを指しているのでしょう。
力強い聖霊の働きの中で、父なる神と一体になり父なる神の思いのこもった言葉を語っておられたからでしょう。
その言葉には神の力が働いているので悪霊さえ従う圧倒的な権威があったのでしょう。
「神と民全体の前で」というのは、イエスはイスラエルに遣わされた預言者ですから、イスラエルの民全体の前でということでしょう。
●20節.それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
祭司長たちや議員たち、いわゆる神の民イスラエルを代表する指導者たちが、イエスを裁判にかけ、死刑に相当すると判決を下し、異教徒の支配者ローマ総督に死刑を執行してもらうために「引き渡した」のです。
こうして、ローマの手によってイエスを十字架にかけ殺してしまったのです。二人の弟子はなぜ自分たちが嘆き悲しんでいるかを説明しています。
●21節.わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
「わたしたちは、」すなわち、イエスの言葉を信じる者たちは、この方こそ、終わりの日にイスラエルを異邦人の支配から開放してくださるメシアと信じて、イエスに望みを置いていました。
この二人の弟子は、この段階でも、イエスが「イスラエルを解放」してくださるメシアだとし、期待しています。
イエスの本当の姿がまだわかっていないのです。
「もう、三日目になります。」というのは、イエスの刑死があってから、もう三日目になりますということで、期待していたのにまだ何も起こりません、ということでしょう。
生前のイエスの話から、何かを期待していたが、その期待は裏切られたと言いたかったのでしょうか。
「暗い顔」の意味は、自分たちの期待が失望に変わったことを意味しているのでしょう。
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