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2018年7月14日 (土)

「ムナ」のたとえ(2)(ルカ19章)

「ムナ」のたとえ(2)です。
聖書箇所は、ルカの福音書19章18節から27節です。

●18節.二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。

●19節.主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。

一ムナで五ムナを稼いだ僕には五つの町を支配する権限を与えました。

マタイでは二タラントンを預けられて二タラントンを稼いだ僕にも、十タラントンで十タラントン稼いだ僕と同じく「多くのものを管理させよう」と言われています。

このたとえが言おうとしていることは、マタイでもルカでも同じですが、主から賜っている賜物が大きくても小さくても、その賜物を忠実に用いて主に仕えているならば、主が再臨されるときに大きな報償を受けるであろうということでしょう。

大きな賜物を与えようか、小さな賜物を与えようかは神が決められることですから報償の対象ではありません。

賜物はその人にご計画があり与えられたので、問題は、その賜物をその人はどのように用いるかでしょう。

ですから、恵まれた環境とか自分の能力とか健康な体を誇るべきではありません。

●20節.また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。

●21節.あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』

ここでは、預かった一ムナを布に包んでしまっておき、「これがあなたの一ムナです」と言って差し出した一人の僕のことが取り上げられます。

マタイのタラントン単位の金額は「布に包んでしまっておく」のではなく、「地の中に隠しておきました」とあります。

この僕はそのようにした理由を「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」と説明しています。

この僕はもしも減らした時の厳しい主人の叱責を恐れて、安全第一の道を選びました。

大きな利益を得られなくても、少なくとも預けられた一ムナを無事に返せば、「預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取る厳しい主人」、すなわち厳しく成果を要求する主人も、自分を責めることはないであろうと考えたのでしょう。

●22節.主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。

●23節.ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』

主人は預けた賜物を用いることを期待していたのに全く用いようとせずにそのまま「布に包んで」しまっておいたのです。

この僕は厳しい主人に恐れをなしてこのようにしたのですが、主人からみれば信頼して委託したのにそれに背いたので「悪い僕」となります。

主人はその僕が自分のことについて言った言葉によって彼を裁きます。

主人は厳しく成果を要求する方であることを知っているのなら、せめて主人の金を「銀行」に預けて置くべきであったのです。

そうすれば、主人は「帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れた」ではないか、それすらしなかった僕は主人の願いを裏切った「悪い僕」となります。

ここで「銀行」とありますが、当時銀行などはなかったと思いますので調べてみますと、「銀行」と訳されているギリシア語の原語は、「テーブル、机」を意味する原語で、コインを載せる机、すなわち両替商などの机を指すと言うことです。

そして、両替商や貸金業者を指すこともあるということです。

ここではそのような貸金業者を指し、そのような業者に預けておけば利息付きで元の一ムナを受け取れたのに、お前はそれもしなかった、と非難されたのです。

●24節.そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』

●25節.僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、

●26節.主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。

言い換えれば、神様から預かった賜物を、全く用いないということは神の意志に背くことになるのですね。

賜物と言うものは用いるためにわたしたちひとり一人に預けられていると言うことです。

言い換えると、賜物を預けられたということはその賜物を用いることによってその人を訓練しょうとされているとも言えます。

全く用いずにそのまま預かっていれば、賜物を預かる資格がないということですから、せっかく預けられた賜物は取り上げられるのです。

そして、その賜物はさらに有効に用いられるために、十ムナをもっている僕、すなわち一ムナで十ムナを稼いだ忠実な僕に与えられるのです。

それに抗議した僕たちに主人は「だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」と答えています。

賜物を用いるのに忠実な僕はさらに多くを委ねられますが、賜物を用いることに忠実ではない僕は、もともと持っているものまでも取り上げられることになるのです。

そうですね、天才として生まれた子供も、その賜物を用いて努力しなければただの人です。

健康という賜物も用いなければ、体を壊して寝たきりになります。

この言葉は当時の格言ではないかということですから、その格言を用いて警告されているのでしょう。

一般的にこのたとえ話の解釈は、主の再臨まで、各人に与えられた信仰と賜物(努力なくして預かった能力とか、恩恵とか祝福で与えられるものすべて)に従って忠実にこの世を生きるよう励ますたとえと理解したいと思います。

●27節.ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」

ルカでは主人の金を委託された僕だけでなく、後から使者を送り、「我々はこの人を王にいただきたくない」と言わせた人たちが登場します。

すなわち、僕たちだけでなく、敵対者が登場します。

旅立った人は王として帰国したとき、彼が王となることに反対した「敵ども」を打ち殺すように命じます。当時はこういうことがあったと思います。

ルカはこういう形で、主が再臨されて最後の裁きを行われるとき、イエスが主であることを認めようとしない者は滅ぼされると言って言っているのでしょう。

なお、このたとえに出てくる僕が預かる金は、わたしたちがそれぞれ持っている賜物(生まれ持って持っている能力とか、健康とか、生まれた環境など恩恵とか祝福で与えられるもの)を指すものと解釈します。

なお、当然信仰も賜物になると思います。

主が再臨される時、わたしたちはこの世をどのように生きたかを問われるのだと思うのです。

そして、僕(しもべ)とあるのは、広く解釈し、クリスチャンを含めてすべての人たちを指すと受けとりたいと思います。

問題は、その決算の時に主人から預けられた「一タラントンを地の中に隠しておいた」僕の処分はどのようになるのでしょう。

マタイの福音書では、僕は主人の資産の管理から外されて、同25章29節では「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」、同30節「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」のです。

なお、非常に厳しい裁きですが、この暗闇は地獄を指すとは限らないと思います。

ルカの福音書では、この僕は一ムナを取り上げられるだけで、「外の暗闇に追い出される」ことはありません(26節)。

主人が王位を受けることを妨害した「敵ども」は打ち殺されるが、この「僕」には報償はないが主人の家にとどまることになります(27節)。

マタイの福音書は、クリスチャンとしての在り方とかキリスト再臨の遅延が背景にありますので、信徒を引き締める意味もあって厳しくなったのでしょうか。

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