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2018年7月 4日 (水)

金持ちとラザロ(2)(ルカ16章)

聖書箇所は、ルカの福音書16章19節から31節です。

共観福音書の並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

投稿文三回の中の(2)です。(2)では24節から25節を読みます。

●24節.そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

金持ちが逝った陰府(ハデス)は、「わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と表現されるほどの苦しみの場所でした。

もちろん、この炎は現実にその様にではなく、苦しみの強さを表しているのでしょう。

これは、終わりの日の神の裁きが火で行われるという当時の終末思想が「陰府」での責め苦にも反映しているのでしょう。

金持ちは「その責め苦の中で目を上げて」はるか遠くにアブラハムと「アブラハムの懐にいるラザロ」を見ます。

ラザロが逝った楽園(パラダイス)と陰府(ハデス)の位置関係は、「はるかかなた」ですが、26節によると、「大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできない」くらいですから、まず行き来するのは不可能と言うことでしょう。

しかし、陰府から楽園の様子を見ることとか声を聞くことはできるのです。

といっても、この話もたとえ話ですから、字義どおりに解釈するのではなく、何を教えようとされているのかを話の内容からくみ取るべきでしょう。

陰府(ハデス)の様子など、この世の言葉では到底正確に表現できないと思います。

なにしろ、楽園(パラダイス)と陰府(ハデス)はこの世と違って時間と空間に制限のない場所で、しかも霊の世界ですから、この世と同じように考えるのがおかしいと思います。

この金持ちは、炎の中でもだえ苦しみながら、「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」と懇願しています。

よほど熱いのですね。いや、苦しいのです。

地上に生きているときには、自分の家の門前で飢えに苦しみ、その食卓から落ちこぼれる残飯で空腹を満たしたラザロと立場が完全に逆転しています。

今は、熱さ(苦しみ)のために宴席にいるラザロの指先の一滴の水を懇願しなければならない立場なのです。

●25節.しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

陰府でもだえ苦しむ金持ちに対して、アブラハムは現在の二人の境遇が、地上での生きざまからくる必然的な結果であると語ります。

しかし、「子よ」と言う呼びかけはどのように解釈すればよいのか。

金持ちは確かにアブラハムの子孫ですから「子よ」と呼ばれてもよいのですが、そうであれば、アブラハヌの子孫だから自動的にアブラハムが受けた神の祝福と同じ祝福を受けられるとは限らないということになります。

神の祝福に大切なのは、生まれはどうであれ、今自分の魂が神とどのような関わり方をしているかと言うことだと思うのですが。

ラザロが楽園の祝福を受けているのは、金持ちは「地上に生きていたとき、彼は良いものをもらっていた」が、ラザロは反対に「悪いものをもらっていた」ことがその理由となっています。

生前の神との関わりは問題にされていません。

生前と死後は、善い境遇と悪い境遇が単純に逆転しています。

神はその人の本質をみて裁かれると思のです。

イエスも人の心の中を見られるかたです。

ですから、ラザロも金持ちも、人としての本質を見られてこのような結果になったと思うのです。

決して、地上における境遇だけでこのような結果を生んだとは思えないのです。

ただ言えることは、この福音書が著わされたころの共同体は、貧しい信者が多く、このように生前の境遇が次の世では逆転すると言う希望に燃えていたのではないでしょうか。

そういう信徒の願望がこの福音書に反映しているように思うのです。

事実イエスは福音を告知する中で、「貧しい者たち」への祝福を宣言されています。だから当然貧しい信徒は来世に希望を持つでしょう。

イエスは社会体制を変革するためとか政治権力の在り方を変えるために来られた革命家ではありません。

イエスはあくまで「神の支配」を告知するために世に来られた方です。

「神の支配」は権力による支配ではなく、人間の霊と神の聖霊とのかかわりの中で働かれる恩恵の支配の場です。

「神の支配」の中では、この世での価値観が逆転しています。

「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるもの」で、「人に卑しめられるものは、神に尊ばれるもの」となります。

この逆転をイエスはたとえ話で語っておられるのでしょう。

しかし、それでも納得できません。

この世で努力して学んで働いてお金を儲けた人が死ねば苦しみの場所に行くなど理解できません。

それでは、どのように考えればよいのでしょうか。

このように考えればどうでしょうか。

経済的に豊かになるとか、学問・技術・芸術など文化的に豊かになることは価値あるもので、熱心に追求すべきものだと思うのです。

しかし、それをもつことを誇り、神との関わりにおいてもそれらに頼り、神よりそういう能力がある自分を価値あるものとするそういう生き方が「神には忌み嫌われるもの」と言うことではないでしょうか。

神は人のものまで取って自分の欲を満たすような、貪欲を忌み嫌われますからね。

ましてや、このたとえ話の金持ちは恵まれた環境に生まれて、労せずに贅沢に暮らせる立場にあるのに、貧しい人に施しもしないで、隣人を自分のように愛することもしないで、その財産を自分のために、自分を誇るためだけに用いたのではないでしょうか。

それに貧しい人々も,その人の責任でもないのにそのような立場に置かれたのです。

働かなければ食べていけないので、時間がなく律法を守ることもままならない状態でした。

イスラエルは神権国家で、何よりも神の律法に忠実であるかが問われるのです。

ファリサイ派の人々はその律法に忠実であることを誇りとしていました。

貧しい人とは対照的に、働くこともしないので、時間が有り余っていたので律法を守ることができました。

ここに出てくる金持ちはそのファリサイ派の人々を象徴しているのでしょう。

このたとえ話は、その人たちへの嫌味にもとれます。

イエスは「人に卑しめられるものは、神に尊ばれるもの」の実例としてラザロの物語りを語られたのでしょう。

ユダヤ教社会で貧しいゆえに律法も守れないラザロのような人は、「罪人」として蔑まれていました。

その様な人は、自分には人に対して何も誇るものがなく、何も頼るものがない者としてただ神の恩恵にすがろうとしています。

神の前で、「罪人のわたしを憐れんでください」としか祈れない人々です。

なんとなく、この箇所のたとえ話の真相が見えてきたようです。

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