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2018年7月10日 (火)

「やもめと裁判官」のたとえ(ルカ18章)

聖書箇所は、ルカの福音書18章1節から8節です。

共観福音書の並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

●1節.イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

このたとえ話は、神の国到来のことを扱っていると思います。

したがって、「気を落とさずに」というのは、キリストの再臨が遅れていることへの共同体の失望とか落胆に対する警告とか励ましを指していると思います。

「絶えず祈らなければならない」というのは、そういう状況において共同体がなすべきことの指示であると言えます。

イエスはすぐに来られるということで、それに備えるために当初エルサレムのキリスト共同体の信者は、自分たちの財産をすべて処分して、処分代金を持ちより共同生活をしていました。

ところが、この時代になり、なかなかイエスが再臨されないので、来られないという遅延の問題にどのように対処するかが問題となっていました。

事実2000年後に今になってもまだ来られません。

ルカは再臨遅延の問題を克服する道として、ルカの福音書17章20節から21節で、フワリサイ派の人々からの「神の国はいつ来るのか」と言う問いに対し、イエスの言葉で、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と答えています。

これは、神の国が到来する時期や「人の子」が現れる時を地上の出来事とすること自体が間違っているとしています。

そして、「神の国はあなた方の間にある」として「遅延」というようなことは本来問題とならないとしています。

時間のない神の国の出来事が、時間の中で生きるわたしたちにそれがいつ起こるかなど分かるはずがありません。

●2節.「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。

●3節.ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。

●4節.裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。

●5節.しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」

やもめの地区を担当する「神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。」その裁判官は、やもめの訴えを取り上げようとしなかった。

しかし、やもめがしつこく求めるので「あのやもめは、うるさくてかなわないから、・・・さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。」と言う理由で裁判官は彼女のために裁判をしてやろうと決心しました。

このたとえの裁判官は、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」です。

その裁判官の担当する地域に貧しいやもめがいて、自分の権利を守ってくれるように訴えたとき、その裁判官は、直ちにそれに応じて裁判をしなければならない立場です。

ところがその裁判官は「しばらくの間は取り合おうとしなかった」のです。

おそらくこんな貧しいやもめの裁判をしても、彼女から賄賂や報酬など期待できそうにないと考えたからでしょう。

彼は、貧しい者を顧みない「神を畏れない」裁判官です。

彼がやもめの裁判を決心したのは、正義のためではなく、貧しい者の権利の擁護のためでもなく、自分の保身のためだけを考えて行動したのです。

したがって、彼は「不正な裁判官」です。

●6節.それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。

1節ではこのたとえ話を語ったのはイエスですが、6節でイエスではなく「主は言われた」となっています。

ここはこのたとえ話の意義を説いているところですから、「主」としたのでしょうか。

「主」というのは復活されたキリストを指しますから、これはおそらく、復活者したキリストの働き(イエスがご自分の代わりにこの地上に派遣された聖霊の働き)を地上の生前のイエスと重ねて語っているからこのようなことになるのでしょう。

明らかにキリスト再臨遅延の状況に「気落ちしている」キリスト共同体に向けて語られていますから、おそらくルカの時代の共同体の状況が背景にあると思います。

なぜならば、イエスが地上におられた時には、再臨遅延の問題を取り上げられることはなかったからです。

ルカは、この裁判官を「不正な裁判官」と呼んで、このような不正な裁判官でも、しつように求められれば求めに応じて裁判をするではないか、「まして(正しい裁判官である)神がそうされないことがあろうか」(キリストの再臨と裁きを前提に)と言いたかったのでしょう。

●7節.まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。

「選ばれた人たちのために裁きを行わずに」の「裁きを行う」というのは、3節でやもめは、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と要求していますから、「不整な[不信仰な]裁判官」を裁いてわたしを守ってください、ということでしょうか。

もちろん、これには、正しいことを証明する為でもありますが、処罰をも含みます。

●8節.言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

「神は速やかに裁いてくださる。」は7節の「いつまでもほうっておかれることがあろうか。」に対比させて強調しています。

でも、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(:ペトロの手紙二/ 03章 08節)ですから、裁きの日が来るのは、わたしたちの目には遅いように見えても神の目から見て定められた時は決して遅くはなく、最善の時を選んできて下さるのでしょう。

だから気落ちするのではなく、神は最善の時に来て下さるから、その日の到来を信じて、祈って待っているようにということでしょう。

このたとえ話の背景には、この時代の共同体では、キリスト再臨遅延による信仰の混乱、つまり、再臨への疑いとか、偽預言者の誘惑とかによって信仰を見失う人も出ていたようです。

キリストを信じる者にとって厳しい時代(ユダヤ教からの排除、独立の時で迫害もあったでしょう)でしたから、キリスト再臨の待望も非常に強かったでしょう。

ルカはその現状を憂えて、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」という「主の言葉」を置いたのではと思うのです。

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