「不正な管理人」のたとえ(2)(ルカ16章)
聖書箇所は、ルカの福音書16章1節から13節の9節です。
共観福音書の並行個所はなく、ルカ単独の記事です。
13節の結論となるところは12年08月投稿の「神と富」を参考にしてください。
●9節.そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
「わたしは言っておく」と言う言葉は、イエスが重要なことを述べるときに使われる言葉です。
「不正にまみれた富」と言う表現は、先の「不義の管理人」と同じ表現です。
管理人は、「不正、不義の富」を用いて、管理人が自分を首にするのを見越して、その時のために自分を助けてくれる友を作りました。
そこでイエスは、この「不正、不義の管理人」がしたように、あなたたちも「不義の富」を用いて友を作れ、と言われています。
ここの意味を考える前提として、この世のものはすべて神のものだと言うことでしょう。
わたしたちは被造物ですから、わたしたちが持っているすべてのものは、神から預かっているだけだと言うことです。
だからどのような手段で手に入れた「富」であっても、その富はすべてこの世を生きるために神から預かった「富」だと言うことです。
だから、「不義の富」というのは、富を得る手段が正しいか不正であるかという問題ではなく、不正な手段で、あるいは、正しい手段で得た富であっても、それを自分のものとして自分のためだけに用いるときは、それは「不義の富」となるということだと思います。
そういう意味で、「富」というのが、財産に限らず才能や知識、またそれで得た地位や名誉など、地上で人間が価値あるものとしているものすべてを指していると思います。
わたしたちが価値あるものとしている「富」すべては、神は目的を持ってわたしたちに預けられたものです。
その「富」は、(1)本来神の創造のご計画に沿って、神の栄光のために用いるものです。
具体的には、隣人を愛するために用いるように、神から委ねられていると言うのです。
だから、わたしたちがそれを自分が獲得したものだから自分のために用いるのは当然だとするならば、それらの価値あるものはすべて「不義の富」になると言えます。
イエスは、どのような手段で得た富であっても、その富で 「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」友を作れと勧告しておられます。
「永遠の住まい」に迎え入れてくれるのは、人間ではなく神です。
したがって イエスは、不義の富を用いて神を友とするように生きよと言われているのです。
自分に賜っている(委ねられている)一切のよきものを、自分のために用いるのではなく、神のために用いて、神に喜ばれる友として生きよ、ということでしょう。
世の人たちの目先の利いた機敏なやり方を見て、あなたたちはそれ以上に機敏に、真剣に決算の日(裁きの日)に備えなさい、ということでしょう。
「金がなくなったとき」と言うのは、わたしたちが世を去るとき、または終わりの日が突然やってくれば、この世の一切の富は来世には持って行けないので、この世に置いていくことになります。
だから、今自分が持っていると思っているものでも、実際は自分が持っているものは何もないのです。
あるのは裸の自分だけ、自分と神との関係だけです。
だから、その時のために現在の富を用いて神を友とすることは、人生における緊急の課題だと言うことでしょう。
●10節.ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
これは当時のことわざ、あるいは格言が引用されているものと考えられています。
それは、次節の内容を語るための準備だと思います。
したがって次節は、この格言の適用として、「だから」という語で始まります。
●11節.だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
ここで言っていることはおそらく、10節を受けて、「ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」のだから、「不義の富の使い方で不忠実な者」は、大きな事、すなわち「本当に価値あるもの」にも不忠実だから、本当に価値あるもの、つまり、「永遠の命」を神から戴けないだろうと言われているのでしょう。
●12節.また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
この節も10節の格言「小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。
ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」を受けて、「他人のもの」と「自分のもの」とに適用しています。
他人のものに忠実でない者は、自分のものにも忠実でないのだから、誰が(他人のものに忠実でないような者に)自分のものを与えてくれるであろうか、という意味でしょう。
他人のものに忠実でない者は、性格が誠実でないことを示しており、そのような者は自分のことも含め万事に忠実でない、という論理が前提にされているようです。
ここの「他人のもの」とは、神から与えられたこの世のすべての「富」のことでしょう。
そして、「あなたのもの」とは、本来自分が固有のものとして持っているはずの「永遠の命」とか、人間は霊的な存在と言われていますから、霊的なものを指しているのでしょう。それを言い換えれば、神と交わることができる能力ということでしょうか。
つまり、神から賜ったものの使い方について忠実でない者は、たとえ本来自分に固有なものとして備わっている永遠の命とか神と交わることのできる霊的なものを与えても、忠実ではないので無駄になる。
そうであれば、誰がそのようなものを与えるだろうか、ということでしょう。
このたとえ話の前提にあるのは、わたしたちは、わたしたちを創造し存在させている方によって存在しているのです。
わたしたちは造られたものですから、当然目的があって創造されたのです。
わたしたちが持っているすべてのものは、創造主である神からこの世を生きるために与ったものなのです。
だから、その方から「お前はどのように生きたか」、すなわち「わたしが委ねた命や能力をどのように用いたか」(創造の目的に沿って生きたか)と問われるならば、それに応えねばならない立場にあるということです。
その様な立場のわたしたちですから、当然応えたか応えられなかったかについてやがて時が来れば決算書を提出しなければならない立場にあります。
このことを「責任」と言っています。
神から離反して自分勝手に生きているわたしたちの「決算書」は膨大な赤字です。
その赤字は、神と共に歩いているが、委ねられた命とか能力を十分に生かしきれないゆえの赤字ではなく、わたしたちの本性がわたしたちを存在させている方に背いて自己中心に生きていると言う根源的な赤字(負債)なのです。
もちろん、その根源的な赤字が派生して、あらゆる罪を生むのです。
だから、イエスはわたしたちに「わたしたちの負債を赦してください」と祈るように教えられました。(マタイの福音書6章12節)
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