徴税人ザアカイ(ルカ19章)
聖書箇所は、ルカの福音書19章1節から10節です。
共観福音書に並行個所はなく、ルカ単独の記事です。
●1節.イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
●2節.そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
エリコの町での徴税人の頭ザアカイの出来事です。
この物語をルカは、同じエリコの町で盲人を癒された話の後に置いています。
貧しい盲人と違って、ザアカイは徴税人の頭で、金持ちです。
わざわざこのような説明を書いているのを見ると、両者を対比する目的もあったのでしょうか。
イエスは18章25節で、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」ともいわれていますが、ここではその金持ちが救われたのです。
徴税人を調べてみると、徴税人の頭とは一般にローマの支配者から特定の地域の徴税を請け負い、複数の配下(下請け)の「徴税人」を使って税を集める「徴税請負人」と理解されています。
徴税人は、ユダヤ教社会では罪人と並べられて嫌われ者で、被差別者の代表的な存在として取り上げられています。
金持ちの徴税人は、物乞いの盲人と同じ社会から疎外された被差別者でした。
そういう点では両者は同じ立場にあるのでしょう。
●3節.イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
●4節.それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
ザアカイは背が低かったので、群衆に遮られてイエスの姿がよく見えませんでした。リアル場表現です。
ザアカイはイエスなら、社会から軽蔑されて疎外されている自分を受け入れてくれると期待していました。
お金は持っていたがユダヤ人社会から差別されていたので、親しく交わる人もいなかったのでしょう。
ザアカイは無意識のうちに救いを求めていたのだと思います。
ザアカイがイエスに会うことを強く願っていましたので、必死でイエスの目に留まろうとします。。
背の低いザアカイはイエスを見ることもできませんでしたので、先回りして、「いちじく桑の木」に登ります。
「いちじく桑」というのは、クワ科の常緑樹で、イチジクに似た実をつけるのでそう呼ばれていましたが、実はおいしくはなかったので,木はおもに建材用に使用されていたそうです。
●5節.イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
ザアカイが登っている木のそばを通りかかったときイエスは、ザアカイに語りかけます。
この「泊まりたい」と言う語句は直訳すると「泊まらなければならない」となるそうです。
ということは、イエスとザアカイの出会い、イエスがザアカイの家に泊まることは神のご計画なのです。必然なのです。
したがってザアカイは、イエスがエルサレムに入る前の日の夜を過ごすために、神が備えられた人物といえます。
●6節.ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
ザアカイは急いで木から降りてきて、喜んでイエスを自分の家に迎え入れます。家に迎え入れたということは、ザアカイがイエスを受け入れたことを示しているのでしょう。
ザアカイはイエスに病のいやしを求めたりしていません。
それなのに、「喜んで」受け入れたと言うことは、イエスに出会たっときに人間的な打算を超えた不思議な喜び満たされたのだと思います。
この喜びは聖霊の働きによるものでしょう。
このときザアカイの魂に新し生命が宿ったのです。ザアカイに救いが来たのです。
●7節.これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
ユダヤ人たちは、「罪深い男」ザアカイの家にイエスが入られるのを見て批判します。
ユダヤ人は、神に受け入れられる清い者であるために、汚れた「罪人」と接触することを極力避けていました。
食事を共にすることなどはしてはならないことでした。
ましてや、「罪人」の代表格である徴税人の家に泊まることなど、もってのほかです。
●8節.しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
ザアカイは「立ちあがって」、イエスに向かって「主」と言っています。
「主」というのは、一般的に自分の支配者とか主人とか所有者のことを指すと思うのですが、そうであれば、ザアカイはイエスを自分の支配者として受け入れたことになります。
その約束の証として、財産の半分を貧しい人に施すと言ったのです。
ただし、このザアカイの約束は救いの条件ではないと思います。
そうでなければ、お金持ちだけが救われることになります。
ザアカイのこういう行為は、救われた時の喜びから来る必然的な結果なのです。
しかし、貧しい人のために施すのに、自分の全財産の全部ではなく半分という数字は一つの目安でしょうね。
●9節.イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
8節のザアカイの言葉を聞いてイエスは、「今日、救いがこの家を訪れた」と言われて、ザアカイが救われたことを宣言します。
そして、その 理由として「この人もアブラハムの子なのだから」という言葉を加えておられます。
「アブラハムの子」はアブラ ハムに約束された神の祝福を受け継ぐ者ということだと思います。
次の聖書の言葉によれば、キリストの民にとってアブラハムは信仰の父と言えます。
「それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」(ガラテヤの信徒への手紙3章9節)
創世紀17章7節の「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。
そし て、あなたとあなたの子孫の神となる」は、神がアブラハムに祝福を約束された言葉です。
●10節.人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
「失われたもの」ですが、イエスが十二人の弟子を派遣するときの言葉に「異邦人の道に行ってはならない。
また、サマリア人の町(異邦人の町・・ユダヤ人以外の人々)に入ってはならない。
むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と命じられたと伝えられています(マタイの福音書10章5節から6節)。
イエスご自身もご自分の使命を「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイの福音書15章24節)と言っておられます。
したがって、ザアカイも「イスラエルの家の失われた羊」の一人であったのです。
なおユダヤ人は、創世記17章7節の契約があるから、自分がアブラハムの子孫であるイスラエルの民に所属する以上、契約の言葉である律法を守っている限り、自動的に主の民としての祝福にあずかる者だと考えていました。
しかしパウロは、祝福に与るのは律法を守った者ではなく、「イスラエルから出た者がみなイスラエルではない。アブラハムの子孫がみなその子ではない」(ローマの信徒への手紙9章6節から7節)と宣言し、アブラハムの信仰に立つ者こそ「アブラハムの子」であると言っています。
そういう意味で、クリスチャンにとってアブラハムは信仰の父なのです。
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