「フワリサイ派の人と徴税人」のたとえ(ルカ18章)
聖書箇所は、ルカの福音書18章9節から14節です。
共観福音書に並行個所はなく、ルカ単独の記事です。
●9節.自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
人が他者を批判するときは、いつも自分は正しいと言う前提に立っています。それは、人間の本性だと思います。
人間と言う動物は、何に対しても自己中心的にしか物事を考えられないと思うのです。
言い換えれば、わたしたちは無意識のうちに自分を規準(物差し)にして他人を測っています。
そして、人のうわさ話のほとんどは、その人が置かれた状態によりますが、人を賞賛することではなく、批判であり悪口だと思います。
イエスはそのような人間の本性(もちろんその本性が、あからさまに表に出るのは、神から離反していることが原因ですが)が神に忌み嫌われるものであることを、実例をあげて説かれます。
●10節.「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
イエスは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて」いる人の代表としてファリサイ派の人を取り上げられ、その対極にある人の代表として徴税人取り上げます。
ファリサイ派の人々はユダヤ教宗教社会で、「義人」(神の前に正しい人)とされる人の代表です。
そして、対極に取り上げられた徴税人は罪人の代表で、ユダヤ教社会から軽蔑され、疎外されていました。
●11節.ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
●12節.わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
●13節.ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
ファリサイ派の人は「心の中で・・祈った」とあります。
心の中はだれも読むことはできませんが、日頃のファリサイ派の人たちの言動から祈りの内容を推察したのでしょう。
それとも、イエスだから人の心の中が読めるのかもしれません。
祈る場合は膝をついて祈るのが普通ですが、ここでは「立って」祈っています。自分は義人だと言う自信の表れでしょうか。
そうですね、わたしは徴税人と違って、律法を学んだり行ったりしない者ではなく、律法を学び行うことができる義人にしてくださったことを神に感謝しています、ということですか。
なんと傲慢な祈りでしょう。
それに対して徴税人は、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈っています。
徴税人は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈っています。
徴税人も「立って」祈っていますが、「遠くに」立って、「目を天に上げようともせず」うつむいた姿勢で祈っています。
ファリサイ派の人と対照的に、彼の神の前での心情、自分には資格や価値もないので、ただすがる思いで「胸を打ちながら」祈ったのです。
胸を打つのは改悛の意味を表します。
徴税人は、ただ一言、『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈ります。神の前に何も誇るものもがないので、言葉もありません。
なお解説によると、「憐れんでください」の動詞の原意は、「和解してください」という意味だということです。
だから、この徴税人の祈りは、「神様、あなたが(わたしを贖って)罪人であるわたしと和解してください」と祈っているのです。
神様、あなたがわたしと和解して、わたしをあなたとの交わりに受け入れてください」と祈っているのでしょう。
●14節.言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
イエスは「言っておくが」と改まった強い言葉で語りかけます。重大なことを宣言されるからでしょう。
「義とされる」とは、神から義人(正しい者)と認められて、神の民としての資格のある者と宣言されることは、当時のユダヤ教徒の宗教生活の目標でした。
そして、義とされるのはモーセ律法を順守することでした。
ところがイエスの神の支配の告知は、当時のユダヤ教社会の常識を覆すことを宣言されます。
イエスの「神の支配」の告知は、モーセに神が与えられた律法の遵守ではなく、父なる神の無条件絶対の恩恵が支配する終わりの日の始まりの到来でした。
それは、律法を行ったからではなく、自分の無価値を認めて、神の恩恵に身を委ねる者が「神の国」に入るという宣言でした。
だから、イエスは「貧しい者は幸いだ。神の国はその人のものである」とか、「わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と宣言されました。
その事態をイエスは14節で「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という格言的な表現で語られました。
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