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2018年7月21日 (土)

エマオで現れる(2)(ルカ24章)

聖書箇所は、ルカの福音書第24章13節から35節「エマオに現れる」の(2)です。22節から読みます。

 

●22節.ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、

 

●23節.遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

 

二人は続けて話します。イエス刑死から三日目になる今日の早朝に起こったことを話し始めます。

 

婦人たち数人が、朝早くイエスが葬られた墓に行きましたが、遺体はありませんでした。

 

そして、そこにいた天使が婦人たちに、イエスは「生きておられる」と告げましたので、婦人たちはそのことを仲間に報告しました。

 

婦人たちは「わたしたちを驚かせました。」ですから、その報告は、「たわごとのように思われたので」信じられませんでしたということでしょう(ルカの福音書24章11節)。

 

 

●24節.仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

 

婦人たちの報告を確かめるために、弟子たちのうち何人か(ペトロと他の弟子)が墓に行ったところ、婦人たちの報告通りであの方イエスは見当たらなかったのです。

 

●25節.そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、

 

●26節.メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

 

イエスは途方に暮れて、嘆き悲しんでいる弟子たちを不信仰だと嘆きます。

 

そして、聖書の中で預言者が言ったメシアへの不信仰を嘆かれます。

 

神から人類救済のために遣わされたメシアは、「このような苦しみを受ける」、すなわち、神の民の指導者たちから見捨てられ、弟子に裏切られ、異邦人に引き渡され、神に打ち砕かれるような死を遂げることは、イスラエルの歴史の中で預言者が預言したことでした。

 

26節でイエスは、メシアはこのような苦しみの後、栄光の地位に高められることになっていると預言者が言っているのに、と嘆かれます。

 

だから、嘆かずに受難に続いて起こる神の栄光の働き(復活のこと)を待てば良い、と言っておられるのでしょう。

 

●27節.そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 

この時代で聖書といえば旧約聖書を指すのですが、その旧約聖書にしても現在の旧約聖書そのままではなく、その範囲が流動的であったということです。

 

少なくともモーセ五書と預言書の権威は確立していたのではと言われています。

 

イエスは、ご自分のことが、聖書全体にわたり書かれていると説明されたということです。

 

この「説明された」というのは、解釈するとか翻訳するという意味だということですので、聖書の言葉は解釈する必要があるのですね。

 

旧約聖書には、イエスの名前が出てきませんので、その必要があるのでしょう。

 

どのように解釈するかは信仰者にとって非常に重要です。

 

そして、このイエスの発言がなにより重要なのは、ご自分で(旧約)聖書の「モーセ律法と預言の書」に書かれていることは自分のことだと言われたことです。(旧約)聖書が神の言葉であることの正当性をご自分で証言されたのです。

 

●28節.一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。

 

●29節.二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

 

二人の弟子はエマオの住人と思われるのですが、イエスはまだ先に行こうとされました。

 

二人の弟子は、この不思議な人物からもっと話を聞きたかったのでしょうか、夕方になり、もう日も傾いてきたという理由で、自分たちのところに泊まるように引き止めます。

 

ユダヤの寒村では旅館もないでしょうから、イエスを泊めるための家は二人の弟子の家でしょう。イエスは二人の弟子の家に泊まります。

 

「イエスはなおも先へ行こうとされ」ていましたから、エルサレムからエマオまで二時間半程ということですから、まだ日没ではなかったかも知れません。

 

●30節.一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

 

●31節.すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

 

「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡し」の動作は食事の時に家長がする動作だということです。
主の晩餐の時のイエスの動作を思い出します。

 

二人の弟子は、イエスのそのような動作を見たとき、「目が開けて」今目の前にいる不思議な人物がイエスだとわかります。

 

この時まで不思議な人物の顔や話や動作を見てもイエスだとわからなかったのです。

 

不思議ですね。目が開かれて見知らぬ旅人がイエスだとわかったのです。

 

「目が開かれて」というのは、おそらく聖霊が働かれてということでしょう。それしか説明のしょうがありません。
姿が見えなくなったのは、目的が達せられたからと言えます。

 

イエスだとわかった瞬間、その不思議な人物の姿は見えなくなったのです。

 

●32節.二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

 

二人の弟子は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、」自分たちの心が燃えていた体験を思い出します。

 

「説明してくださった」つまり、聖書を開いて、隠されていた聖書の内容を解釈して明らかにして、説明されたのです。

 

何が隠されていたのかは、「ご自分について書かれていること」でしょう。

 

イエスは聖書全体を神の人類救済の働きの預言と見ていました。

 

聖書はそのように理解すべきであるということでしょう。

 

このような正しい聖書解釈と開示を聞き、二人の弟子の心は燃えます。

 

「心が燃える」というのは、聖霊の働きを受けたときに誰でもが覚える現象です。この現象はわたしにも経験があります。

 

●33節.そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、

 

●34節.本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。

 

二人の弟子は「時を移さず出発して、」(33節)エルサレムに戻ります。

 

エルサレムまで二時間半の工程です。

 

イエスの姿が見えなくなってすぐに出発したのなら、夜の闇が迫る前に到着できるでしょう。

 

夜道は追い剥ぎなどがたむろして恐ろしいと聞きます。

 

もちろん、「時を移さず」急いだのは、早く仲間たち(十一人の弟子とその仲間)に自分たちの体験を知らせたかったのでしょう。

 

仲間のもとに帰ってみると、そこにいた弟子たちも「主は復活して、シモンに現れた」と言っていました。

 

●35節.二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 

復活の弟子に出会った二人の弟子は仲間に「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第」を話します。

 

イエス復活顕現は、イエス逮捕の巻き添えを食うのを恐れて故郷へ逃げ帰っていた弟子たちに勇気を与えます。

 

イエスが生前に語っておられた復活が実現したのです。弟子たちはイエスが生前に語っておられた言葉を思い出したでしょう。もう、疑う余地はありません。

 

この後、弟子たちは故郷を引き払って家族ともどもエルサレムに移住し、聖霊降臨を待つことになるのです。

 

ただ、本格的なイエスを証する活動は、40日後の聖霊降臨(使徒言行録2章)の時を待たなければなりませんでした。

 

でも、イエスの生前の予告通り、イエスの顕現を体験したので、危険なエルサレムに移住して祈りの毎日を送る勇気が持てたのは明らかです。

 

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