「ムナ」のたとえ(1)(ルカ19章)
聖書箇所は、ルカの福音書19章11節から27節です。
長いので二回に分けてまとめたいと思います。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書「タラントン」のたとえという副題で、25章14節から30節です。
神の子イエスは約2000年前にこの世が神の支配に入ったことを告知しにこの世に来られました。
現在この世は神の支配下(神の支配する範囲の拡大は現在進行形ですが)にありやがてキリストが再臨され裁きの時を迎えます。
それが終わって初めて神の支配は完成するのです。
この投稿文(1)では17節まで読みたいと思います。
●11節. 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。
イエスの一行がいよいよエルサレムに入ろうとする前に、イエスは「神の国はすぐにも現れるものと思って」いる群衆に向かって語られました。
ユダヤ人の群衆は、イエスを人類のメシアではなく自分たちのメシアとしてみていました。
神はイエスによって大いなる業をお示しになり、異教徒の支配(この場合はローマ帝国)から解放されて神の支配が直ちにイスラエルに実現する、と期待していました。
その様な期待をたしなめるようにイエスは話し始められました。
ルカの福音書とマタイの福音書とはこのたとえの用い方が違います。
マタイはこのたとえをイエスが「キリストの再臨」の預言とその心構えを語られた場所(マタイの福音書24章と25章)に置いていますが、ルカはこのたとえを違った形で用いています。
この記事の並行個所であるマタイの福音書の「タラントンのたとえ」は、イエスが天の国の摂理を、主人の財産を与った僕の忠実さとその報いを表すたとえとして用いています。
しかしルカは、群衆が神の国がすぐにでも来ると期待している中で、自分の所属する共同体にキリストの再臨の時期を問題にすることを避けて、主イエスから委託されたことを忠実に守り歴史の中を歩む覚悟を促しています。
おそらくキリスト再臨の遅延問題が背景にあってこのようなたとえになったのだと思います。
●12節.イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。
マタイの福音書では「ある人が旅行にでかけるとき」とあるだけです。
僕(しもべ)たちに委ねた金額の大きさからすると、富裕な商人を連想させます。
ところがルカでは「ある立派な家柄の人が王の位を受けて帰るために」旅立ったことになっています。
しかし、14節には、住民は彼が王になることに反対して、「後から使者を送り」王の位を与えないように請願したとあり、27節にはその人が王の位を得て帰国したとき、彼が王となることに反対した人たちを打ち殺すように命じたという結末で終わっていますが、内容から見ておそらく歴史的な背景があるのでしょう。
その歴史的な背景を調べてみますと、
「王の位を受けて」というのは、ローマの支配下にあった当時のパレスチナでは、王として支配するためにはローマ皇帝の承認が必要でした。
そうすると、この王の位を受けるために遠いところに出かけた立派な家柄の人は、当時王についたのはヘロデ王ですから、ヘロデ王を連想させます。
●13節.そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
旅立つ主人が僕(しもべ)に委託した金の単位は、マタイでは「タラントン」でしたが、ルカでは「ムナ」になっています。
調べてみますと、「ムナ」はギリシアの銀貨で、1ムナは100ドラクメに相当し、ギリシア銀貨の「ドラクメ」はローマ銀貨の「デナリオン」と等価ということです。
労働者の一日の労賃の標準が1デナリオンですから、これを現在の日本の貨幣価値に換算しますと(平均月収を30万円として)、1デナリオン(=1ドラクメ)は約1万円、1ムナは100万円ということになります。
「タラントン」はギリシアで用いられた計算用の単位で6000ドラクメに相当しますので、1タラントンは6千万円ということになり、マタイの福音書の5タラントンは3億円を預けられたことになります。
ルカでは各人が1ムナ(100万円)ずつ委ねられたとされていますので、マタイとルカでは金額が大きく違います。通貨単位も違います。
しかし、そういう細かいことは、たとえ話ですから語ろうとすることとはあまり関係がないと思いますのでこだわらないようにします。
●14節.しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。
これに相当する記事はマタイにはありません。12節を参照。
●15節.さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。
マタイでは「主人が帰ってきて彼らと清算を始めた」のですが、ルカでは「彼は王の位を受けて帰って来ると」とありますから、利益を上げた僕たちに王の資格と権力をもって報償を与えるということでしょうか。
●16節.最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。
●17節.主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』
預けられた1ムナで十ムナもうけた僕に対しては、「ごく小さな事に忠実だったから」という理由で、「十の町の支配権」が与えられます。
与えられる報償は金銀でなく「町の支配権」ですから、まさに王が家臣に与える権限としてふさわしい報償です。
マタイでは「多くのものを管理させよう」とあります。
その理由は、「少しのものに忠実だったから」ということです。
僅か一ムナの金を主人のために忠実に活用したことを誉められて、十の町を支配するという大きな権限と栄誉を与えられたということに意味があるのでしょう。
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