神の国が来る(1)(ルカ17章)
聖書箇所は、ルカの福音書17章20節から37節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書24章23節から28節、37節から41節です。
投稿文は二回に分けて、ここでは27節まで読みます。
●20節.ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。
●21節.『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
「神の国はいつ来るのか」という問いは、当時のユダヤ教徒の重大関心事でもあったと思います。
そして、「見える形ではない」ですから、神の国はどのような形で来るのかという問いを含んでいると思います。
この問いに対してイエスは、「神の国は、見える形では来ない」(21節)、つまり、神の国は人の目に見える地上の歴史上の国としてくるのではないこと、そして,神の国は「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」(22節)、つまり、場所的に特定できる形で来るのではないと答えられています。
ユダヤ教徒はイスラエルという国の救いとしての神の支配を考えていましたが、このように応えることにより当時のユダヤ教徒の思い違いを指摘し、その結論として神の支配が到来するとはどのような性格の出来事であるのかを語られます。
それが22節の、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」という言葉です。
それでは、この「あなた方の間に」とはどのような意味でしょうか。
それは、イエスが語りかけたのは人間一般を指すとして、神の支配は人間の間に現に到来している、ということではないでしょうか。
なお、人間の間にとは、既にあなたたちの中に現れたイエスにおいて神の支配の現実が到来していると理解することもできます。
このような理解は同時に「神の国はいつ来るのか」「神の国はどのように来るのか」という問いにも答えることになります。
ファリサイ派の人たちがイエスを前にして、「神の国はいつ来るのか」ということを問題にするのは、神の支配の現実は「見える形で来る」、すなわち「『ここにある』 『あそこにある』と言える」形で来ると考えているからだと思います。
イエスが告知される神の支配は、そのような歴史的出来事として起こるものではなく、「あなたたちの内にある」のですから、そういう問いは的外れなのです。
イエスはこの答えで、彼らの神の支配についてのとらえ方が間違っていることを指摘されているのでしょう。
●22節.それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。
このイエスの言葉は、弟子たちにだけ語られました。
それは「神の国が来る」ことではなく、「人の子が現れる」ときのことが語られたからです。
なお、「人の子」というのは、旧約聖書ダニエル書7章13-14節のキリスト再臨の預言に出てくる言葉でイエスを指します。
「人の子の日を一日だけでも」というのは、何日か人の子の日があってそのうちの一日だけでもととることができます。
「人の子の日」というのは、イエスの十字架、復活、昇天、そして、やがて来る天からの再臨という一連の出来事が起こる時、あるいはそれらの出来事自体を指していると思います。
イエスは十字架の死も「人の子」に起こる出来事としておられるのです(25節)。
そうすると、「一日だけでも」というのは、これらの出来事が起こる日々の中の一日ということになります。
まとめてみると、イエスはやがて世を去り、弟子たちは十字架・復活・昇天によって自分たちのところから去られたイエスが「人の子」として天から現れる日を見たいと切に願う日々を迎えることになるが、「人の子」が現れるのを見ることはないであろう、と言っておられることになります。
あなたたちの望む日に来ることはないでしょうと言うことでしょうね。
待ちくたびれて信仰の火が消えかけた時に突然やってくると言うことになります。
●23節.『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。
●24節.稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。
イエスはここでも21節と同じような語句を遣われて、「『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが」信じてはならないといわれます。
24節の「稲妻」の比喩はマタイの福音書24章27節には「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。」とあります。
ここは、本当に稲妻が鳴ってイエスが再臨されると言うのではなく、稲妻を比喩として用いて、イエスの再臨は時空の枠を超えた超自然的な出来事であることを表しているのでしょう。
なぜなら、古代では、稲妻はいつ起こるのか誰も予測することができない出来事、そして人間がコントロールすることができない出来事の代表格であったからです。
稲妻は人間の限られた地域、あるいは日常の時間の経過の中で行っている営みとは別次元の出来事として起こりますので、そのように、神の支配も人間が地上の時間の中で行っている出来事(=歴史的出来事)とはまったく別次元の出来事として起こるといっているのでしょう。
●25節.しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。
ここは、終わりの日に栄光の中に稲妻のように現れる「人の子」は、地上で苦しみを受けるイエスに他ならないことを、改めて語っているのだと思います。
●26節.ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。
●27節.ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。
「ノアの時代にあったようなこと」、つまり、旧約聖書の創世紀6章の「洪水」の個所にあるように、ノアの親族以外のすべての人々が不信仰ゆえに神が起こされた洪水で滅ぼされましたが、ノアは神の警告の言葉を信じて箱舟を作り、箱舟に入り助かった物語を指します。
「ノアが箱舟に入るその日」に洪水が突如襲って来るのですが、それまで人々はそのような危機の時が来ることを意識せず日常の生活に明け暮れていたので、そのことを言っておられるのでしょう。
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