フォト
2025年4月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

カテゴリー

« 放蕩息子のたとえ(ルカ15章) | トップページ | 律法と神の国(ルカ16章) »

2018年7月 1日 (日)

金持ちとラザロ(1)(ルカ16章)

聖書箇所は、ルカの福音書16章19節から31節です。

共観福音書の並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

投稿文は三回に分けます。(1)では23節までを読みます。

最初に書いておきますが、このたとえ話は、目に見える地上の世界と、見えない死後の世界とを対照して語っているたとえ話でありますので、ここに書いてある姿がそのまま死後の世界を映しているとは限らないと思います。

イエスは、ユダヤ教の死後の世界の思想を用いて応えられていると思うからです。

●19節.「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

ローマの貴族階級の人たちは、下着には柔らかい麻布(亜麻布)を着て、上着には紫色の衣を着るのを常としていたそうです。

パレスチナの支配階級や富裕階級の人たちもそれに倣って、そのような格好をして富と権力を誇示していたそうです。

彼らは民衆の捧げもので日々の暮らしをしていたので、日々の糧を得るために働く必要はなく、「毎日ぜいたくに遊び暮す」ことができました。

「日々の糧を得るために働く必要はなく」ですから、人々の献金とか供え物で贅沢に暮らしていたのでしょう。特権階級ですね。

●20節.この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、

●21節.その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。

19節の金持ちの姿とは対照的な、金持ちの家の門の前に横たわっている「貧しい人」であるラザロの悲惨な姿が描かれています。

「できものだらけの」というのはどのような病気なのでしょうか。

どちらにしても、見るからに悲惨で、人々からは忌み嫌われるような、働くこともできない病なのでしょう。

「貧しい人」ラザロは、金持ちの家の前を行き来する人たちから恵んでもらうために、物乞いとして門前にいたのでしょうか。

それとも、その金持ちの家から捨てられる残飯でお腹を満たしたいと思っていたのでしょうか。どちらにも取れます。

ラザロは人々から忌み嫌われる病気のため働くこともできないで、ぼろをまとい、食べ物にも事欠くだけではなく、21節では、「犬にそのできものを舐められる」とあります。

これは、イスラエルの宗教社会では最低の人間として、いや、人間として扱ってもらえない状況であることを示しているのでしょう。

●22節.やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

貧しい人ラザロが死んで、天使たちに宴席にいるアブラハムのところに連れていかれました。

このアブラハムがいるところは義人がいるところで、楽園(パラダイス)のことだと思います。

アブラハムはイスラエルの父祖であり信仰の父と言われています。

「アブラハムのすぐそばに」とありますが、この表現はアブラハムと密接な関係にある、すなわち、信仰の父であるアブラハムと親しく交わっているということです。

イスラエルの人々にとっては、とくにユダヤ教上層部の人達にとっては誇りとするところです。

●23節.そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

金持ちも死んで葬られますが、彼は「陰府(ハデス)でさいなまれています。

陰府(ハデス)には二か所あって、それは、義人が逝く慰めの場所と、悪人が責め苦を受ける場所です。

金持ちは、その悪人が責め苦を受ける場所にいることになります。

決して地獄ではありません。

でも、両者の隔たりは「はるかかなた」でした。

« 放蕩息子のたとえ(ルカ15章) | トップページ | 律法と神の国(ルカ16章) »

共観福音書を読む」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 金持ちとラザロ(1)(ルカ16章):

« 放蕩息子のたとえ(ルカ15章) | トップページ | 律法と神の国(ルカ16章) »