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2018年7月の記事

2018年7月29日 (日)

最初の弟子たち

聖書箇所は、ヨハネの福音書第1章35節から42節です。

●35節.その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。

●36節.そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。

「その翌日」、洗礼者ヨハネは二人の弟子と一緒にいるときに、歩いておられるイエスを見て「見よ、神の小羊」と証言します。

なお、洗礼者ヨハネはイエスについて「神の小羊」という証言を繰り返しています。

すなわち、神の霊がその上にとどまる方として、イエスこそ「世の罪を負う神の小羊」であり、「聖霊によってバプテスマする方」であり、「神の子」であると証言しているのでしょう。

●37節.二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。

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2018年7月28日 (土)

神の子羊

聖書箇所は、ヨハネの福音書第1章29節から34節です。

●29節.その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。

「神の小羊」ですが、旧約聖書にあるように、人を裁きや滅びから救うために身代わりとして捧げられる犠牲の羊や山羊を象徴として、洗礼者ヨハネはイエスのことを「小羊」といっているのでしょう。

これは明らかにイエスがメシアだと証言していることになります。

●30節.『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。

「わたしよりも先におられたかた」というのは、もうすでにあなた方の中に来られているがあなた方が気づいていない方で、その方は「わたしにまさる」方として、イエスを指しているのでしょう。

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洗礼者ヨハネの証し

聖書箇所は、ヨハネの福音書第1章19節から29節です。

なお、よければ平成11年05月に投稿した「イエス、洗礼を受ける」(カテゴリーは共観福音書を読む)を参考にして下さればと思います。

●19節.さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、

「エルサレムのユダヤ人たち」とは、この文体から考えると、エルサレムの一般群衆を指すのではなく、エルサレムを本拠とする当時のユダヤ教指導者層を指すと思います。

「祭司たち」とは、神殿の祭儀をとり行う者たちのことで、ここではレビ人と組みになって律法の専門家として扱われています。

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2018年7月26日 (木)

言葉は肉となった(2)

聖書箇所は、ヨハネの福音書第1章1節から18節です。

二回に分けて、(2)は11節から読みます。

●11節.言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。

「言は、自分の民」の民は、人類救済のために選ばれたイスラエルのことでしょう。

「自分の民のところへ来た」ですから、ロゴスであるイエスは、肉体で世に現れる前に、アブラハムを選ばれ、イスラエルの民の歴史の中で、律法や祭儀制度や出来事など、さまざまな形で働いていたということでしょう。

「民は受入れなかった」とは、イスラエルがさまざまな形で預言者を通して語りかけられる神の言葉に従わないで、そして、最後に送った神の言葉が受肉した御子イエスを拒否して殺してしまったことを指しているのでしょう。

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言葉は肉となった(1)

聖書箇所は、ヨハネの福音書第1章1節から18節です。

二回に分けて、(1)では10節までを読みます。

●1節.初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

「光よあれ」、という言葉が創世記第1章1節で発せられています。

すると光が出現する。

つまり神から出た言葉(思い)は、そのように現実、実在を伴うという思想がここにはあります。

この世はサタンが支配する闇の世界、そこにイエスは命の光、栄光をもって現れました。

この1節のはじめは、時間の始めではなく、全存在・全事象の根源としてのはじめをさしていると思います。全存在・全事象があっての時間とも言えます。

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2018年7月24日 (火)

ヨハネの福音書を読む・・前置き

ヨハネの福音書を最初から学んでいきたいと思いますが、その前にヨハネの福音書の特徴をまとめてみました。    
ヨハネの福音書の著者は、おそらく十代かそこらでイエスの弟子になり、イエスと寝食を共にしてイエスの神の支配の教えを受け、力ある業を、イエスの十字架死と復活を身近で体験し、そして、天に昇られるのを見ていると思うのです。

その後、イエスが予告された聖霊体験(使徒言行録2章)を経て、イエスの教えを告知することによって受けるあらゆる苦難と迫害に会い、生前イエスが予告されていたことが現実に起こっていることを身をもって体験し、聖霊に導かれてこの福音書を著わしたのだと思うのです。

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2018年7月21日 (土)

弟子たちに現れる

聖書箇所は、ルカの福音書第24章36節から49節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書28章16節から20節/マルコの福音書16章14節から18節です。

●36節.こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけて閉じこもっている弟子(ヨハネの福音書第20章19節)たちの部屋に忽然とイエスが現れました。

そして、ユダヤ人が日常人に会ったときの挨拶、「あなたがたに平和があるように」、つまり、シャロームと言って挨拶されました。

「こういうこと」というのは、エマオへの道中で二人の弟子が復活のイエスに出会った体験とか「シモン」の顕現体験などのことを十一弟子と話していたことでしょう。

●37節.彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。

集まっていた弟子たちは、目の前に復活のイエスが突然現れたので驚きました。

とっさのことだったので復活のイエスを亡霊だとおもったのです。

亡霊も異次元の存在です。

異次元の存在に恐怖を覚えるのは人間が持つ本能的なものです。

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エマオで現れる(2)

聖書箇所は、ルカの福音書第24章13節から35節「エマオに現れる」の(2)です。22節から読みます。

●22節.ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、

●23節.遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

二人は続けて話します。イエス刑死から三日目になる今日の早朝に起こったことを話し始めます。

婦人たち数人が、朝早くイエスが葬られた墓に行きましたが、遺体はありませんでした。

そして、そこにいた天使が婦人たちに、イエスは「生きておられる」と告げましたので、婦人たちはそのことを仲間に報告しました。

婦人たちは「わたしたちを驚かせました。」ですから、その報告は、「たわごとのように思われたので」信じられませんでしたということでしょう(ルカの福音書24章11節)。

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エマオで現れる(1)

聖書箇所は、ルカの福音書第24章13節から35節です。

共観福音書の並行個所はマルコの福音書第16章12節から13節(二人の弟子に現れる)です。二回に分けまして(1)では、21節までを読みます。

●13節.ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、

●14節.この一切の出来事について話し合っていた。

「ちょうどこの日」というのは、すなわち週の初めの日である日曜日で、女性たちが、墓が空になっているのを見つけた日のことでしょう。

「二人の弟子」はイエスが選ばれた十二弟子以外の弟子と思われます(24章33節参照)。

「六十スタディオン」は、一スタディオンが185メートルということですから約十一キロになります。歩いて約二時間半の距離です。

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2018年7月19日 (木)

ヘロデから尋問される

聖書箇所は、ル」カの福音書23章6節から12節です。

共観福音書の並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

●6節.これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、

●7節.ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。

ローマ総督のピラトはイエスがガリラヤ人であることを確認しています。

イエス運動がガリラヤから始まったことを知っていたのでしょう。

ガリラヤはヘロデ・アンティパスが支配する町です。

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財布と袋と剣

聖書箇所は、ルカの福音書22章35節から38節です。

共観福音書の並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

●35節.それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、

●36節.イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。

「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか」とイエスは弟子たちに言われていますが、その使わされた時というのは、かつて彼らをガリラヤの町や村に「神の国」を告げ知らせるために十二人を派遣されたとき(ルカの福音書9章1節から6節)のことだと思います。

この時弟子たちは、遣わされた先でイエスの御名により病人をいやし悪霊を追い出して「神の国」を告げ知らせました。

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2018年7月17日 (火)

一番偉い者

聖書箇所は、ルカの福音書22章24節から30節です。

共観福音書の参考個所は、マルコの福音書10章35節から45節(ヤコブとヨハネの願い)、マタイの福音書20章20節から28節(ヤコブとヨハネの母の願い)です。

●24節.また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。

イエスが死を覚悟してエルサレムに向かわれたとき、弟子たちはイエスが神の右の座に着かれた際、イエスによる神の支配の実現を期待し、その御国において自分たちも高い地位に着くことを願っていました。

そのことを語る個所は、このルカの福音書においては最後の晩餐のところに、マタイの福音書とマルコの福音書ではエルサレムに向かう旅の途上、エルサレムに入る直前に置かれています。

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暴行を受ける

聖書箇所は、ルカの福音書22章63節から65節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書26章67節から68節、マルコの福音書14章65節です。

●63節.さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。

予審の尋問が終わり、イエスはアンナスの屋敷の一隅に連れて行かれ、警備の兵士から暴行を受けますが、「見張りをしていた者たち」というのは、囚人イエスを監禁し監視する役目の神殿警護隊の兵士(警官)を指しているのではということです。

マルコの福音書14章65節では、最高法院(実際は予審尋問)での死刑決議の後、「(議員の中の)ある者はイエスに唾を吐きかけ、イエスに目隠しをしてこぶしで殴り、『言い当ててみろ』と言い始めた。また下役たちは、イエスを平手で打った」と伝えています。

ルカはそれを警備の兵士の仕業にし、「イエスを侮辱したり殴ったりした。」と簡単に書いています。

●64節.そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。

●65節.そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。

目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」とありますが、このようにイエスが暴行を受けたことは、共観福音書すべてに共通していますが、並行個所であるマタイの福音書26章68節は、「メシアよ、・・・言い当ててみろ」として、わざわざメシアと呼びかけて、イエスを嘲笑というか侮蔑をこめた言葉を投げかけています。

皇帝への税金

聖書箇所は、ルカの福音書20章20節から26節です。

共観福音書の並行個所はマタイの福音書22章15節から22節。マルコの福音書12章13節から17節です。
ルカの福音書に沿って読んでいきたいと思います。

●20節.そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。

彼らとは、「律法学者たちや祭司長たち」のことでしょう。

彼らはすぐにでもイエスを逮捕しようとしますが、群衆を恐れて手を下すことができませんでした。

暴動が起きると、ローマの締め付けが厳しくなりますから、それが怖かったのでしょう。

そのために、別の方法を画策します。

それは、ローマ総督の力でイエスを逮捕し、抹殺する方法です。

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2018年7月14日 (土)

徴税人ザアカイ

聖書箇所は、ルカの福音書19章1節から10節です。

共観福音書に並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

●1節.イエスはエリコに入り、町を通っておられた。

●2節.そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。

エリコの町での徴税人の頭ザアカイの出来事です。

この物語をルカは、同じエリコの町で盲人を癒された話の後に置いています。

貧しい盲人と違って、ザアカイは徴税人の頭で、金持ちです。

わざわざこのような説明を書いているのを見ると、両者を対比する目的もあったのでしょうか。

イエスは18章25節で、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」ともいわれていますが、ここではその金持ちが救われたのです。

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「ムナ」のたとえ(2)

「ムナ」のたとえ(2)です。
聖書箇所は、ルカの福音書19章18節から27節です。

●18節.二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。

●19節.主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。

一ムナで五ムナを稼いだ僕には五つの町を支配する権限を与えました。

マタイでは二タラントンを預けられて二タラントンを稼いだ僕にも、十タラントンで十タラントン稼いだ僕と同じく「多くのものを管理させよう」と言われています。

このたとえが言おうとしていることは、マタイでもルカでも同じですが、主から賜っている賜物が大きくても小さくても、その賜物を忠実に用いて主に仕えているならば、主が再臨されるときに大きな報償を受けるであろうということでしょう。

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2018年7月12日 (木)

「ムナ」のたとえ(1)

聖書箇所は、ルカの福音書19章11節から27節です。

長いので二回に分けてまとめたいと思います。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書「タラントン」のたとえという副題で、25章14節から30節です。

神の子イエスは約2000年前にこの世が神の支配に入ったことを告知しにこの世に来られました。

現在この世は神の支配下(神の支配する範囲の拡大は現在進行形ですが)にありやがてキリストが再臨され裁きの時を迎えます。

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「フワリサイ派の人と徴税人」のたとえ

聖書箇所は、ルカの福音書18章9節から14節です。

共観福音書に並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

●9節.自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。

人が他者を批判するときは、いつも自分は正しいと言う前提に立っています。それは、人間の本性だと思います。

人間と言う動物は、何に対しても自己中心的にしか物事を考えられないと思うのです。

言い換えれば、わたしたちは無意識のうちに自分を規準(物差し)にして他人を測っています。

そして、人のうわさ話のほとんどは、その人が置かれた状態によりますが、人を賞賛することではなく、批判であり悪口だと思います。

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2018年7月10日 (火)

「やもめと裁判官」のたとえ

聖書箇所は、ルカの福音書18章1節から8節です。

共観福音書の並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

●1節.イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

このたとえ話は、神の国到来のことを扱っていると思います。

したがって、「気を落とさずに」というのは、キリストの再臨が遅れていることへの共同体の失望とか落胆に対する警告とか励ましを指していると思います。

「絶えず祈らなければならない」というのは、そういう状況において共同体がなすべきことの指示であると言えます。

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イエス三度死と復活を予告する

聖書箇所は、ルカの福音書第18章31節から34節です。

共観福音書の並行個所は、マルコの福音書第10章32節から34節/マタイの福音書第20章17節から19節です。

ここはイエスの三度目の受難予告です。

●31節.イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。

イエスは十二人の弟子だけをご自分の側に呼び寄せて、重要な奥義を語られます。

それは、これからエルサレムに入るに際し、ご自分についてエルサレムで起こる出来事に備えるためでした。

エルサレムでイエスの身に起こる出来事は、このときの弟子たちには、想像を超える出来事であることをイエスは知っておられます。

「人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」と言われました。

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2018年7月 9日 (月)

神の国が来る(2)

神の国が来る(2)です。

聖書箇所は、ルカの福音書17章28節から37節です。

観福音書の並行個所は、マタイの福音書24章23節から28節、37節から41節です。

●28節.ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲
んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、

●29節.ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。

「ロトの時代」(旧約聖書創世紀19章の「ソドムの滅亡」のこと)にも同じようなことが起こったことが続いて語られます。

イスラエルの人々にとって、この出来事は誰でもが知っている有名な出来事ですから、それを引用して、世の人々が迫っている危機を自覚せず、毎日を気楽に過ごしている姿をソドムの出来事を例に挙げて警告されます。

●30節.人の子が現れる日にも、同じことが起こる。

●31節.その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。

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神の国が来る(1)

聖書箇所は、ルカの福音書17章20節から37節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書24章23節から28節、37節から41節です。

投稿文は二回に分けて、ここでは27節まで読みます。

●20節.ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。

●21節.『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

「神の国はいつ来るのか」という問いは、当時のユダヤ教徒の重大関心事でもあったと思います。

そして、「見える形ではない」ですから、神の国はどのような形で来るのかという問いを含んでいると思います。

この問いに対してイエスは、「神の国は、見える形では来ない」(21節)、つまり、神の国は人の目に見える地上の歴史上の国としてくるのではないこと、そして,神の国は「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」(22節)、つまり、場所的に特定できる形で来るのではないと答えられています。

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2018年7月 8日 (日)

重い皮膚病を患っている十人の人をいやす

聖書箇所は、ルカの福音書17章11節から19節です。

共観福音書の並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

●11節.イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。

イエスはこの地上での最後の旅、エルサレムへ上られる途上、サマリアとガリラヤの間を通られました。

●12節.ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、

●13節.声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。

「重い皮膚病」とあるのは、ユダヤ教において祭儀的に不浄とされる皮膚病のことでしょう。

祭司からこの皮膚病だと宣告された者は、一般社会から隔離された場所で暮らし、神殿祭儀に参加することは許されず、一般の人が近づいたときは自分で自分のことを「汚れた者」と叫んで、その存在を知らせなければならなかったということです(旧約聖書レビ記13章から14章)。

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2018年7月 6日 (金)

「不正な管理人」のたとえ(2)

聖書箇所は、ルカの福音書16章1節から13節の9節です。

共観福音書の並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

13節の結論となるところは12年08月投稿の「神と富」を参考にしてください。

●9節.そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

「わたしは言っておく」と言う言葉は、イエスが重要なことを述べるときに使われる言葉です。

「不正にまみれた富」と言う表現は、先の「不義の管理人」と同じ表現です。

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「不正な管理人」のたとえ(1)

聖書箇所は、ルカの福音書16章1節から13節です。

二回に分けて、ここでは8節までを読みます。

共観福音書の並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

13節の結論となるところは12年08月投稿の「神と富」を参考にしてください。

●1節.イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。

当時の資産家は、自分の財産の運用を一人の有能な管理人に任せる場合が多くあったと言うことです。
イエスは弟子たちにそのことを例に用いてたとえ話を語られます。

ある金持ちの資産の運用を任された一人の管理人が、主人の財産を「無駄遣いしている」と告げ口する者がありました。

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2018年7月 4日 (水)

金持ちとラザロ(3)

聖書箇所は、ルカの福音書16章19節から31節です。

共観福音書の並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

投稿文三回の中の(3)です。(3)では26節から31節を読みます。

●26節.そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

「わたしたち」とは、アブラハムを代表とする過去のイスラエルの義人たちで、その人たちがいる場所は楽園(パラダイス)です。

「お前たち」とは、地上で働きもしないで遊び暮らしていた金持ちのことで、その人たちがいる場所は、陰府(ハデス)のことだと思いますが、両者間には、越えることができない「大きな淵があって」渡ることができないとアブラハムは告げます。

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金持ちとラザロ(2)

聖書箇所は、ルカの福音書16章19節から31節です。

共観福音書の並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

投稿文三回の中の(2)です。(2)では24節から25節を読みます。

●24節.そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

金持ちが逝った陰府(ハデス)は、「わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と表現されるほどの苦しみの場所でした。

もちろん、この炎は現実にその様にではなく、苦しみの強さを表しているのでしょう。

これは、終わりの日の神の裁きが火で行われるという当時の終末思想が「陰府」での責め苦にも反映しているのでしょう。

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律法と神の国

聖書箇所は、ルカの福音書16章14節から18節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書11章12節から13節です。

●14節.金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。

「この一部始終」とは、「不正な管理人」のたとえ(ルカの福音書16章1節から13節)の中でイエスが話されたことでしょう。

そこでイエスは、弟子たちに世の富の性質と用い方を説かれました。

それを聞いていたファリサイ派の人々が、「イエスをあざ笑った。」のです。

彼らは「金に執着する」者たちであったので、イエスが弟子たちに説かれた富に対する心構えではなく、神に仕える生き方を嘲笑したのです。

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2018年7月 1日 (日)

金持ちとラザロ(1)

聖書箇所は、ルカの福音書16章19節から31節です。

共観福音書の並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

投稿文は三回に分けます。(1)では23節までを読みます。

最初に書いておきますが、このたとえ話は、目に見える地上の世界と、見えない死後の世界とを対照して語っているたとえ話でありますので、ここに書いてある姿がそのまま死後の世界を映しているとは限らないと思います。

イエスは、ユダヤ教の死後の世界の思想を用いて応えられていると思うからです。

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放蕩息子のたとえ

聖書箇所は、ルカの福音書第15章11節から24節です。

共観福音書に並行箇所はなく、ルカ単独の記事です。

●11節.また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。

●12節.弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。

●13節.何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。

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