目を覚ましている僕(ルカ12章)
聖書箇所は、ルカの福音書12章35節から48節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書24章45節から51節です。
●35節.「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」。
この個所は、何時訪れるかわからない終わりの日の裁きのとき、つまりキリストが再び来られるときに備えることの必要性を語られているのでしょう。
「腰に帯を締め」というのは、その日が突然来ても慌てることがないようにいつも準備して置きなさい。つまり、心構えのことを言っておられるのでしょう。
「ともし火をともしている」というのは、何時キリストが再び来られてもよいように、わたしが教えたことをしっかり守って、その日に備えていなさい、ということでしょう。
灯というのは、聖霊のことでしょう。御霊を心の中にしっかりと抱いて毎日を生きなさいということでしょう。
●36節.「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
●37節.主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。
●38節.「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」。
「主人「は神のことで、「僕」(しもべ)はわたしたちでしょう。
解説では、たとえられている当時の婚礼の宴は、夜中まで続き、帰宅は夜になるのが普通だったということです。
また、主人が夜に帰ってくると言っても宴がいつ終わるかわからないので帰ってくる時刻はわかりません。
もし、主人が帰ってきたときに僕が眠っていたら帰宅した主人を迎えることはできません。
主人が帰宅した時に、目を覚ましている僕は、すぐに戸を開けて主人を迎えることができます。
それは僕にとっては幸いですから、38節はその幸いを強調するために繰り返し語っておられるのでしょう。
そのように、主人が帰るとき、つまり、キリストが再び来られる日が近いことをいつも自覚して、その到来がいつあるかわからないのであるから、いつもそれに備えて神の言葉を心に留めて今の人生を歩むように、イエスは「目を覚ましていなさい」という言葉で呼びかけられたのでしょう。
「目を覚ましていなさい」というのは、もちろん、わたしの言葉を何時も心に留めて、つまり、信仰をしっかりと守ってあなたの人生を歩みなさいと言うことでしょう。
もちろん、目を覚ましていなさいの反対は、眠っているですから、眠っているというのは、神の言葉から離れているとか、忘れて人生を送っていることでしょう。
37節の「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」というのは、目覚めていてキリストが再び来られるのを迎える者の幸いを婚宴の宴席をたとえにして語っておられるのでしょう。
このたとえは、目覚めていて再び来られるキリストを迎える者たちに、キリストがご自分の栄光を分かち与えてくださることを指していると思います。
●39節.「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう」。
今度は泥棒のたとえで、泥棒はいつやってくるかわからないのと同じように、キリストが再び来られる日が分からないことを語っておられるのでしょう。
家の主人は泥棒に備えていつも用心していなければならないように、イエスは弟子たちに常に終わりの日に備えて生きるように求められます。
●40節.あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。
「婚宴のたとえ」と「泥棒のたとえ」の二つのたとえで、常に(信仰にというか、御霊に)目覚めて用意しているように語られました。
それらのたとえで教えられるのは、なぜそのようにしていなければいけないのか。
それは突然、思いがけない時に世界に現れる「人の子」を迎えるためです。
もちろん、「人の子」とは、再臨のイエス・キリストのことです。
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