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2018年6月 1日 (金)

やもめの息子を生き返らせる(ルカ7章)

聖書箇所は、ルカの福音書第7章11から17節です。

共観福音書の並行個所はありません。

●11節.それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。

●12節.イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。

●13節.主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。

●14節.そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。

●15節.すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。

●16節.人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。

●17節.イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

イエスと弟子の一行は、カファルナウムに拠点を置きガリラヤの各地を巡回し、神の支配の到来を告げ知らせる活動を続けました。

この箇所は、ガリラヤ南部にあるナインの町においての伝道活動での記録でしょう。

いつもの通り大勢の群衆も一緒でした。

ナインの町はカファルナウムの南西方向(ナザレからは南南東10キロほど)にある都市で、城壁に囲まれていたということです。

死んだ子供が母親に付き添われて城壁の外に埋葬されるところでした。

やもめで一人息子を亡くした母親の悲しみはさぞ深いものであったでしょう。

当時男権社会でしたので、女性は数の内に入らず、ましてややもめの女一人では売春などで生計を立てる以外に生きていくすべはありません。

男である息子が唯一の頼りで、希望であったと思います。

息子はその母親にとって希望であり経済の支えであったのです。

そのような母親の悲しむ姿を見てイエスは憐れまれました。

そしてイエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。

そうするとその通りになりました。

死んだ人間が生き返ったのです。

このようなことが出来るのは、人間を創造された神以外にはありえません。

神の御霊、聖霊はイエスと共におられます。

聖霊が働かれてイエスが言葉を発し、その言葉通りに死人を起き上がらせると言う事態が起こったのです。

神の言葉は発せられると、その通り実現するのです。神の言葉には、命があり、創造の力があるのです。

イエスが死んだ若者に命じられるとその死人が生き返ったという出来事を目撃した人たちは、「恐れを抱き」ます。

称賛するよりもまず恐れを抱いたのです。人間は想像を絶する出来事、未知の出来事に遭遇すると恐れを抱きます。

しかし、イスラエル民族にはそういう事態を受け容れる宗教的なバックがありましたから、その畏怖は冷静になれば神への賛美に変わります。

当時のイスラエル(ユダヤ教サドカイ派を除き)には、神の訪れのとき、つまり終わりの日には死んだものが生き返るという復活信仰がありました。

それは旧約聖書によるものですが、イスラエルの中の一部の庶民と、貧しい人々はイエスの出現を持って旧約聖書で預言されていた神の訪れの時が到来したと理解しました。

だから民衆は、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」(16節)と言ったのだと思います。

イスラエルの民だからそういう言い方をしたのでしょう。

反対に首都エルサレムの支配者階級は、この後イエスを拒否し、十字架で殺したのです。

イエスは大衆に人気があるので革命運動を心配したのでしょうか。

ちよっと、話がそれますが、イエスのことを「大預言者」と書いています。

作り話なら、なおさら福音書の著者は、イエスのことを「神の子」とか「メシヤ」と主張したいはずだからその様に書くはずなのにそうではなく「大預言者」と書いています。預言者はあくまでも人間です。

福音書著者は、イエスの弟子ですから普通ならば「神の子」とか「メシヤ」とイエスのことを書くはずですが、そのように書いたのは、事実そのように大衆が言ったからだと思うのです。

こう言うところが聖書にはあるのです。だから、聖書は正直に書かれていると思うのです。

さて、このようなことを書けば、聖職者の方には叱られそうですが、ちょっとここから話が変わって、この物語の死人の復活は本当にあった話なのでしょうか。

イエスの十字架死からの復活を含めて、死人の生き返りをどのように考えればよいのか見てみたいと思います。

死からの復活は、イエスのなされた奇跡の中でも、ちょっと、次元の違う奇跡で、奇跡の中の奇跡と言えます。
四つの見方があります。

この福音書はイエスが十字架死され復活された後で書かれていますから、この物語はイエスの十字架死からの復活が本当であったからそのことを踏まえてこの話が作られたという考え方です。

やもめの息子の死からの復活話は、作られた話だとする考えです。

それとも、この話がほんとうに起こった出来事であったからこの話が生まれたのでしょうか。

あるいは、イエスの十字架死からの復活も、やもめの息子の復活も全く作り話でしょうか。

もちろん、作り話だとしてもその意味するところ、何かを霊的に教えることがあるから、その話が生まれたのは間違いがないと思います。

聖書は小説ではありません。

死者の復活なんて本当にあるのでしょうか。

復活を目撃した人々はすべて死んでしまい、今となってはだれも証明できません。

したがって、どちらの復活も事実であるか、どちらも霊的な何かを教えるための作り話なのかと言うことになります。

わたしはもちろん先のほう、つまり両方とも事実あった出来事だと信じています。

わたしが復活を事実だと信じる理由は次の通りです。

福音書の記者たちがそう証言しているからです。

復活が事実あった出来事だから、聖書が今日まで生き残ったと思うからです。

復活の目撃者がまだ生きている時代にこの福音書が書かれているのです。

嘘であれば、とくにキリストの民を排除しょうとする敵対者であるユダヤ教の支配者層は、絶好の攻撃材料になりますから見逃すはずがありません。

しかし、よく考えれば、作り話であったとしても、伝えようとすることの目的が達成できれば、実際に復活があったか否かは別にして、復活は事実であったと言えると思うのです。

聖書の出来事が事実であるか否かは別にして、信じて読むこと、その意味するところを霊的に読むことが大切だと思うのです。

そうすると、書いてあることが事実か否かはどうでもよくなるのですね。

だから、書かれていることがすべて事実であるとして読んでも何の支障もないと思うのです。

福音書のイエスがなされた奇跡を見てみますと、どちらに属するか分からない奇跡もあります。

でも、聖書のこの箇所は信じて、あの箇所は信じないなんてのもおかしいと思うのです。信じるならば全部を信じるべきです。

世界を見渡すと、現在でも現実に奇跡が起こっているのは事実だと思います。

わたしはこういうところは余り難しく考えずに、ここで語られている出来事は、イエスによって現実に行なわれたとそのまま信じています。

だって、この世の出来事の何が真実か何が嘘かなどわかるはずがないと思うからです。

わたしたちは、どこまで自分たちのことを知っているのでしょうか。

人間の生死の問題一つ根本的なところは何もわかっていないのですから。

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