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2018年6月21日 (木)

安息日に腰の曲がった婦人をいやす(ルカ13章)

聖書箇所は、ルカの福音書13章10節から17節です。

共観福音書に並行個所はなくルカ単独の記事です。

●10節.安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。

イエスの新しい教えは、最初はユダヤ教内での活動であったということです。したがって、イエスもユダヤ教会堂にてイスラエルの民に対し教えておられました。

この節は、安息日にユダヤ教会堂で教えておられます。

ガリラヤでの活動期間中での出来事ではないでしょうか。

●11節. そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。

「病の霊に取りつかれている」と表現していますが、これは特定の病気を指すのではなく、この時代の病人に対する一般的な表現ではないかということです。

当時は、医学も発達していなかったので、病は悪霊などの仕業とされていたと思います。

それにしても、「十八年間」というのは非常に長い間病に苦しんでいたのですね。

●12節.イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、

●13節.その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。

このいやしの記事は、霊を追い出す動作はなく、単純な病気のいやしの記述だけになっています。

長患いの女性をイエスは呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その女性に手を置かれると、十八年間も腰をのばすことができず曲がったままだった女性の腰が、たちどころにまっすぐになりましたので、女性は喜びのあまり、神の御業を賛美しました。

●14節. ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」。

「会堂長」というのは、ユダヤ教会堂での礼拝を取り仕切る責任者のことでしょう。

ですから、安息日に働いてはいけないという律法規定に、イエスの行為が違反するので会堂長は見過ごせなかったのでしょう。

ましてや、会堂の中での出来事です。

女性は十八年間も患っていたのですから、治療は今日でなくてもよいのではと言うことでしょうか。

しかし、この会堂長は「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と言うだけで、イエスに対し律法違反を咎めませんでした。

●15節. しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。

●16節.この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」。

会堂長は、十八年間も患っていたのだから治療は今日でなくてもよいのでは、ということですが、イエスは、十八年間も患っていたのだから一日でも早く患いから解放してやるべきではないかと言われました。

まさに、イエスはこの女性を憐れまれて病を癒されたのがわかります。

「偽善者たちよ、」とイエスは会堂長らに対し呼びかけられましたが、この偽善者たちよと呼びかけられたのは会堂長だけではなくユダヤ教指導者全体を指してのことだと思います。

なぜなら、15節でイエスのことを「主は」となっていますから、この記事は生前のイエスの言葉ではなく、福音書記者が御霊との交わりの中で、復活のイエスが福音書記者に語られた言葉と考えます。

福音書著者の中では両方の言葉が重なっているのかもしれません。

おそらくこの福音書が生まれた共同体とユダヤ教会堂の対立があったのではと思います。

イエスは、「あなたたちはだれでも(自分に都合のよいことは、)安息日にも(自分の)牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか、」と指摘されました。

イエスは、自分は逃げ道を作って他人に厳しい律法の遵守を求める彼らを偽善者と呼ばれていたのです。

ここで「サタン」は、人間を束縛する、悪に導くあらゆる霊的な力のことでしょう。16節で「その束縛から解いてやる」となっています。

この女は、腰が曲がって立てなかったという機能的な面のほかに、サタンの霊的な力に囚われていたのでしょう。
だれでも、十八年も患っていたら気弱になり、サタンに囚われやすくなると思います。

だからイエスは、心がサタンに囚われたこの女性を「その束縛から解いてやる」と言われたのでしょう。

●17節.こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。

福音書の他の個所、ルカの福音書6章11節、マルコの福音書3章6節では、ユダヤ教側の反対者らはイエスに殺意を抱いていますが、ここではそのようなこともなく「反対者は皆恥じ入った」となっています。

ユダヤ教側にも敵対する指導者だけではなく、そういう理解のある指導者もいたのでしょう。

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