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2018年6月24日 (日)

弟子の条件(ルカ14章)

聖書箇所は、ルカの福音書第14章25~27節/同17章33節です。

 

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第10章37~39節です。

 

●25節.大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

 

●26節.「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

 

●27節.自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」

 

●17章 33節.自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。
イエスはこの個所で弟子の条件を語られます。

 

イエスの神の国運動は、当時のユダヤ教の教えとは敵対する教え、イスラエルは神権国家ですからいわば国家勢力に敵対する教えでした。

 

 

イエスの言葉を信じて生きる者は厳しい立場にあったでしょう。

 

イエスの言葉を信じる者と信じない者は、終わりの日の裁きの場ではもちろん、地上においても対立し敵対する関係にあるといえます。

 

イエスは言われました。

 

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(マタイの福音書第10章34節)。

 

この剣は敵対関係を象徴するもので、ルカの福音書第14章26節では、その対立関係が家族の絆をも超えるものであることを語っておられます。

 

このように、イエスの言葉を信じる者と信じない者は一緒に歩むことはできないのです。

 

神との関わりは人間存在の根本ですから、あらゆる人間関係に優先しますので、おのずとそういう結果になるのです。

 

しかし、イエスを普通の人間としてみたら、これほどの僭越・傲慢なことはないと思います。

 

気が違ったと思われても仕方がないでしょう。

 

ユダヤ人たちはイエスを自分たちがあがめる神の子ではなく、一人の人間としてみていました。

 

だから、ユダヤ人たちがイエスあるいはイエスを信じる者を憎むのは当然で、両者が敵対関係になるのはやむを得ないことだと思います。

 

26節でイエスは、「・・父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」と言われました。

 

イエスとの結びつきは、親子の情愛よりも強いきずなで、最も優先させるべきものなのです。

 

並行個所であるマタイの福音書10章37節にもそのことを語ったイエスの厳しい言葉があります。

 

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」です。

 

イスラエルは神権国家で宗教国家です。

 

選択の余地のないユダヤ教という古い伝統宗教の中で生きる家族の反対の中で、イエスの言葉を信じることは家族の中で分裂を起こします。

 

しかし、それでイエスの新しい教えを信じることをやめるようでは、イエスの弟子として、また、新しい教えは成り立たないでしょう。

 

逆にいえば、それほどの覚悟をもってイエスの言葉を信じ、イエスについて行く覚悟がなければ、今のようにキリスト教が世界に広まることはなかったでしょう。

 

巷の新興宗教と同じように歴史の泡となって消えてしまっていたかもしれません。

 

新興宗教であるオウム真理教などは、出家制度もあったということですが、出家は、家族の絆よりも信仰を優先させる点では同じだと思います。

 

しかし、その信仰の質が違うと思うのです。

 

オウム真理教のようにカルト的宗教では、出家は社会からの隔離を意味しますが、イエスの福音は、信じる者を血縁や伝統宗教の拘束から解放し、父なる神は愛ですから、その神の御霊が働く中での新しい人間関係を創造する働きがあるからです。

 

父なる神の絶対無条件の慈愛のもとで、隣人を自分のように愛する愛が当たり前のように成就する、その関係は民族も・権力も・財力も関係のないお互い人間であるというだけの根拠で形成される関係だと思うのです。

 

それは、神の御霊に導かれた人間関係ですから、良心の葛藤もなく、そこには本当の自由があります。

 

本来クリスチャンが集まる中での人間関係はそうあるべきものだと思います。

 

これをある神学者は、イエスの言葉を信じて、家族とか社会と対立関係になっても、それは家族とか社会と自分を隔離するのではなく、新しい人間関係を形成すべく再び家族や社会の中に帰ってくると、表現されています。

 

また、新しい人間関係を形成すべく家族や社会の中に再び帰ってきても、その家族や社会があくまで古い伝統的な関係に固執して新しい人間関係を受け入れることを拒否するならば、迫害が起こらざるをえないと思いますが、それによって生じる苦しみは、この新しい人間関係を生み出すための産みの苦しみになると語っておられます。

 

わたしは思うのです。その新しい人間関係は、天の国での人間関係です。

 

天の国での人間関係は、この世の人間関係に優先するということだと思うのです。

 

弟子の条件について、もう一つ注目すべきイエスの言葉があります。

 

それは、マルコの福音書第10章29節から30節の「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言ったペトロに、イエスはこう言っておられます。

 

「はっきり言っておく。わたしのため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。

 

来るべき世で永遠の命を受け継ぐだけでなく、この世でも捨てた家族を百倍にされて受けることになるというのです。
このイエスの言葉は、何を言おうとしているのでしょうか。

 

二つの見方があると思います。

 

一つは、この言葉は、先に書いたように、いったん捨てた古い家族とか社会との関係も、この地上で生みの苦しみを経て帰るとき、神の御霊のもとでの自由な新しい人間関係の中で、以前にもまして豊かにそれらを受け取ることができるということを指しているのでしょうか。

 

使徒言行録 第16章31節「二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」は、そのことを言っているのだと思うのです。

 

御霊に満たされたクリスチャンは世の光です。

 

その光は世を変え家族を変えるということです。

 

もう一つの見方として、この受け取るべき新しい社会とか家族を、この地上でのことではなく、来世、神の国において得られる新しい家族を指しているという見方です。

 

また、新しい家族をこの地上のこととして考えるならば、クリスチャンの兄弟姉妹を新しい家族ととらえることもできます。

 

なんだか両方とも正しいように思います。

 

わたしはどちらにしても、この聖句は最終的に過去・現在・未来のすべての人々が救われて、やがて新しい家族になることを表していると思うのです。

 

先に家族を捨て社会を捨てた人は、生みの苦しみを経てその人たちを導くために世の光となり、新しい御国の礎となるのだと思うのです。

 

したがって、受けるべき新しい家族は、この世でとは限らないし、その家族も新しくされた血縁につながれている古い家族だけとは限らないと思うのです。

 

来世においては、肉体がないので生殖活動の必要もありませんから、この地上での血縁関係で結ばれた家族関係はなくなると思うのです。

 

このイエスの言葉は、この日本の平和な時代を生きるわたしたちには身近に考えることができない言葉ですが、イエスとかマタイが生きておられた時代の状況では、文字通りの意味で語られていた言葉であると思います。

 

マタイの福音書の並行個所は、「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

 

自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイの福音書第10章38節から39節)とあります。

 

さて、最終的には人類全員が救いにあずかると言いましても、それまでの生みの苦しみにはつらいものがあります。

 

この聖句は、先に救われた者、家族を捨て社会を捨てイエスについて行く者の運命と、そのあとにやってくる祝福を、イエスはこのように表現されているのだと思います。

 

イエスが十字架の死を通って復活の命に達しられたように、弟子も自分の十字架を担い、イエスの告白のために命を失うことを通して永遠の命に達するのだと思います。

 

まさにこれは、自己否定を通して真の生命に達するという宗教的真理の表現ですが、この言葉も先の言葉と同じで、イエスとかマタイが生きておられた時代、迫害が激しい状況では、文字通りの意味で語られていた言葉であると思います。

 

先に救われた者は十字架を背負ってこの世を生きなければなりません。

 

誰もそのようなことを望みませんが、その人たちの強い信仰は、その人が持とうと思って持つ、つまり、人間の努力で持てるものではなく神の賜物です。

 

神がその人たちを選ばれて、十字架を背負ってこの世を生きる事を望んでおられるのだと思うのです。そのために神の御霊、聖霊はその人を助けられます。

 

だから、全員が救われるといいますと、よく伝道が必要なくなるといいますが、伝道という人間の行為には、神の賜物である信仰を生み出す環境を整えるための役目があるのではと思っています。

 

新しい信仰者を生み出すのも神と人間の共同作業といえます。

 

どちらか一つが欠けても成り立ちません。

 

ですから、ほとんどの人が救われるという思想と矛盾するものではありません。

 

なお、ルカの福音書第14章26節の古い家族と社会を捨てなさいというイエスの言葉は、モーセの十戒で「あなたの父母を敬え」という教えは矛盾しているように見えますが、これは決して矛盾していないと思うのです。

 

なぜなら、イエスにわたしの十字架を背負ってついてきなさいと言われた人は、すべての民族が救われるための先がけ、礎として選ばれた人たちです。

 

その選ばれた人たちにイエスは言っておられると思うからです。

 

その選ばれた人たちは、それほどの覚悟がなければこの地上ではイエスの教えについてはいけないということでしょう。

 

そして、その選ばれた人たちにイエスは優先順位を言っておられると思うのです。

 

家族のことよりも、先ず父なる神との交わりに入りなさいということだと思うのです。

 

イエスの言葉を信じれば、その人に御霊が降り内住します。

 

そうすればその人は神の支配のもとに生きることになります。

 

そうであれば、地上の血縁関係の家族との絆よりも神との関係を優先すべきだということなのでしょう。

 

イエスは、マタイの福音書第10章39節で「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」と言って励まされるのです。

 

新しい命の創造とは、イエスの言葉を信じる者が御霊により内から変えられていくことで、そのようにして、新しい命が生まれてくるから古い命が自然と落ちて消えていくということでしょう。

 

秋に枯葉が落ちていくのと同時に新しい芽が生まれるのと同じです。

 

これ、自然の摂理です。いえ、いえ神の命の摂理です。

 

最後に、マタイの福音書第6章33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」アーメン

 

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