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2018年6月15日 (金)

「忠実な僕と悪い僕」のたとえ(ルカ12章)

聖書箇所は、ルカの福音書12章41節から48節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書24章45節から51節です。

このたとえ話は、ルカの福音書12章の「目を覚ましている僕」のたとえ話の後半部分です。

●41節. そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、

●42節.主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人はいったいだれだろうか」。

このペトロの質問は、この章の前半の「目を覚ましている僕」のたとえ話が、誰に語られたのかをイエスに問うているのでしょう。

イエスが弟子たちに語りかけたり、取り巻く群衆に語りかけたりしておられる状況で、このたとえがどちらのグループに語りかけられているのかということでしょう。

なお、イエスは先に二つのたとえ話、つまり、「婚宴から夜中に帰宅する主人のたとえ」と「泥棒のたとえ」を語っておられますが、ここの「このたとえ」というのはどちらかを指すのか、あるいはどちらも対象にしているのでしょうか。

解説によると、この「このたとえ」という言葉は単数形なので、「婚宴から夜中に帰宅する主人のたとえ」を指しているのではということです。

なぜなら、「泥棒のたとえ」は婚礼のたとえの意味を強調するために挿入されたものではないかとみるからです。
42節では「イエスは言われた」ではなく、「主は言われた」となっています。

「主は言われた」と言うのは、復活したイエス(三位一体の神の三位格である聖霊のこと)が言われたという意味に使われていると思います。

だから、生前のイエスではなく復活したイエスが言われた、ということではないかと思います。

でも、復活したイエス(弟子が聖霊の導きのもとに使っている言葉)の言葉と生前のイエスの言葉の使い分けがそのまま現在まで残っているというのはすごいことです。

だから、聖書は信じることができるのです。

42節の、「主人が召し使いたちの上に立てた管理人」ですが、43節で「主人が帰って来たとき」とありますから、このたとえは、主人が商用で長旅に出たときのたとえだと思います。

管理人は「召し使いたちに時間どおりに食べ物を分配させる」という仕事を委ねられた僕のことでしょう。

それでは、この管理人である僕は、いったいなにをたとえているのでしょうか。

おそらく、羊の群れ(信者の共同体)の管理者として立てられ、群れに時間通りに御言葉という霊的食べ物を与える仕事を委ねられた人たちを指していると思います。

このことからも、ここのイエスの言葉は、生前のイエスの言葉ではなく復活のイエスの言葉(つまり、弟子が聖霊の導きにより書いた言葉)だと思います。

●43節.「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。

●44節.確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」。

主人の留守中に命じられたとおり忠実に職務を果たして、主人が帰ってきたとき、その忠実ぶりを見られる僕は、主人の信用を得て、主人の全財産の管理を任されるようになるであろうと言われます。

ここはキリスト再臨に対する備えの話ですから、この言葉は主キリストが再臨されるとき、地上の歩みで主の言葉に忠実に従い、主から委ねられた使命を忠実に果たした弟子は、主人の全財産ですから、世界の支配をまかされることになるということでしょう。

新しい天地(黙示録21章)の管理者は、キリスト信徒全員ではなく、信徒を管理する忠実な管理人だということです。

●45節. 「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、

●46節.その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる」。

忠実な僕(しもべ)の話の後に、悪い僕の姿が描かれます。

なぜ僕が悪くなるのかと言いますと、「主人の帰りは遅れる」ですから、主人の帰りが遅くなるならば、主人が返ってくるまでまだまだ時間があると思い、その間に神の言葉をおろそかにして放蕩に身を任せて楽しもうとすること、すなわち、鬼の居ぬ間に洗濯です。

背景として、当時、迫害が続く中、唯一の希望で、待望するキリストの再臨がなかなか実現しないので、共同体の中で信者たちの気が緩んで、つまり、信仰の動揺が見られるそういう時代に福音書が書かれているということでしょう。

そういうことで、信者たちの気持ちを引き締める意味もありこのようなたとえ話を書いたのではないかと思います。

悪い僕は、主人の帰りは遅れると思うと、主人が帰るまでは自分の天下、つまり、自分が主人のように振る舞い、自分の下にいる「下男や女中」を気に入らなければ殴ったりしてこき使います。

また、自分の欲望のままに振る舞い「食べたり飲んだり、酔うようなこと」になります。

このように、主人から委ねられた仕事を果たすことを怠ります。

このような僕は、主人が「予想しない日、思いがけない時に帰って来て」厳しく処罰することになります。

このようにイエスの弟子であっても、自分が主人であるかのように高ぶり(自分の言葉が神の言葉だから自分の言葉に絶対に従えというように)、自分に委ねられた羊の群れを食いものにして自分の満足を追い求めるような者は、キリストが再臨されるとき、不信者と同じ扱いを受け、救いから放逐され、厳しい裁きが待っていると警告しています。

この福音書が書かれた時代のキリストの共同体の中に、信者を食い物にして自分の利益を追い求める者がいたのでしょう。

現在の教会にもたまに見受けられる光景ですが、当事者は自分のやっていることに気がついていないように思います。

気がついていれば、信仰はあるのでしょうから怖くてできないでしょう。

●47節.「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。

●48節.しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」。

ここは41節のペトロのイエスに対する質問の答えとしての結論部分ですね。

すなわち結論は、差し迫っている終わりの日の裁きに備えなければならないのは、すべての人間に共通ですが、 主人(主)の思いを知らされている弟子たちは、それだけ責任が重いので裁きも厳しい。

主の思いを知らないで主の思いに反することをした者の責任は軽いので裁きも軽い、ということでしょう。

なお、この47節の「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕」というのは、45節から46節の悪い僕を指すと思います。

この悪い僕に対する処罰は厳しい断罪であり追放でした。

なお、悪行の程度により処罰の重さが変わることはないと思います。

ところがここでは48節で処罰は「鞭打ち」で、「鞭打たれても少しで済む」ということはその鞭打ちにも程度があるということです。

まとめてみますと、イエスの弟子のようにイエス・キリストの十字架と復活という終わりの日の救いのみ業にあずかる者、神の人類救済史の奥義を知ることを許された者は、他の人たちに較べて、終わりの日に備えて生きることで、そ の証しをしなければならない責任は格段に重いものがあるということでしょう。

その中でも、任された任務によって責任の重さに違いがあるでしょうが、キリストの民の責任の重さを自覚させようとして、ルカはこのたとえ話を用いて語っているのでしょう。

そして、さらに48節で、「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」と言う格言を用いて締めくくります。

ルカは、このことを言いたかったのでしょう。

なお、マタイの福音書24章45節から51節の並行個所は、旅に出た主人の帰りを待っている間の僕の忠実さと仕事ぶりと、その仕事ぶりに対する報酬が問題にされています。

使用人たちをよく管理して主人の資産を忠実に守った賢い僕(管理人)には、「全財産を管理させる」という報酬が与えられますが、主人の帰りが遅いと思い、仲間を殴ったり、酒飲みと一緒に飲んだり食べたりしている自分の役目に不忠実で自分の好き勝手に振る舞っていた悪い僕(管理人)は、偽善者たちと同じに扱われて罰せられ、外の暗闇に追い出されて「泣きわめいて歯ぎしりする」ことになると警告されます。

このように各福音書で少しずつ重点の置きどころが違うのは福音書が書かれた時代背景とかその福音書を生みだした共同体における伝承の違いが影響しているのでしょう。

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