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2018年6月 3日 (日)

七十二人を派遣する(ルカ10章)

聖書箇所は、ルカの福音書10章1節から12節です。

この記事はルカ単独の記事です。

●1節.その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。

「主はほかに七十二人を任命し」とありますから、この記事は、派遣された十二人が帰ってきて(ルカ9章10節)、エルサレムに向かうに際し、十二人のほかに七十二人を選ばれて、これから行こうとされる町や村に二人一組で、先に派遣されたのでしょう。

●2節.そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。

このイエスの言葉はマタイの福音書9章37節の群衆に同情されたのでしょうか。

この言葉は、マタイでは弟子を派遣する前に置かれていますが、ルカでは派遣の際の説教の中に置かれています。

どちらにしても、イエスが「収穫」という比喩を用いて、神の支配の到来が迫っていることと、その時に備えるために福音を告げ知らせる働きを急ぐ必要を語っておられるのでしょう。

そして、そのことに対し、準備する働き手がさらに多く送り出されるように祈るように求めておられます。

なお、「収穫」は、蒔かれた神の言葉である福音を告げ知らせたのちに来る、世の終わりの裁きの時をたとえているのでしょう。

●3節.行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。

この言葉も並行個所であるマタイの福音書10章16節の迫害を予告するところにあります。

ご自身で激しい批判と迫害を体験されたイエスは、弟子たちが派遣先において出会う迫害を見通して、このような狼と子羊の比喩で、弟子たちに覚悟を促されたのでしょう。

●4節. 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。

●5節.どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。

ここでイエスは、派遣する働き手に、その働き方について具体的な指示を与えておられます。

旅には何も待たず、ただ神が備えてくださるものだけに頼って進めという指示です。

「十二人の派遣」の記事と比べてみると、少し簡略化されています。

4節の「途中でだれにも挨拶をするな」というのは、役目に専念させるために、そのことで旅程を遅らせることになるのを心配されたのでしょうか。

5節の『この家に平和があるように』というのは、イエスの使者として、「この家に平和があるように」というメシアとしての平和を願う挨拶をしなさいということでしょう。

●6節.平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。

5節のような挨拶をした弟子を迎え入れる家の主(あるじ)は、「平和の子」であり、使者がもたらしたメシアの平和(あなた方が願う平和のこと)はその人にとどまります。

イエスの使者を受け入れる者は、その使者を遣わした方イエスを受け入れているということでしょう。

逆に、その家がイエスの使者を拒むならば、使者がもたらした平和は、その家に入らず、使者に戻ってくるということでしょう。

●7節.その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。

使者を受け入れた「平和の子」が、イエスの使者を家に迎え入れられるならば、その家に泊まって、そこで出される物を食べ、飲み、その家を拠点として使者としての働きを進めなさい、と指示されたのでしょう。

ここで、働く者が報酬を受けるのは当然だからと言われていますが、その報酬は神からの報酬であり、神が使者の働きをさせるために与えてくださっているものだと思います。

何も「平和の子」の家から報酬をもらえと言う意味ではないでしょう。

だから、よい待遇を求めて、「家から家へと渡り歩くな」と言って念を押されています。

●8節.どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ

●9節.その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。

●10節.しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。

●11節.『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。

● 12節.言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

ここでは、「神の支配が近づいた」と告げるイエスの使者を受け入れる町と拒む町を比較して、そのときの対処を具体的に語られます。

しかし、この対比は、個人ではなく町単位で比べられています。

イエスがガリラヤで神の国を宣べ伝えられたときには、個人がイエスを信じて いやされたり罪の赦しを受けたりして救いを体験していましたが、町単位でイエスを信じたり拒否したりして、救いと祝福を受けたり断罪されることはありませんでした。これはどういう意味でしょうか。

イエスからの使者を受け入れる町は、その町の病人をいやし、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。

すなわちあなたがたが神の栄光と祝福に与る日が近いと宣言されます。

それに対して、使者を拒む町については、去るときに広場に出て、「足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す」と言って、以後この町とはいっさい関わりがないことを宣言し、その上で「しかし、神の国が近づいたことを知れ」と宣言されます。

これらの言葉は、我々すべての者に対し、メシアであるイエスの言葉を拒んだときは、その責任を問われると言っておられると取りたいと思います。

そして、その責任に対する処罰はソドムよりも重いものになるとされます。

その理由は次の段落「悔い改めない街を叱る」(17年12月投稿済み)に書きました。

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