「無くした銀貨」のたとえ(ルカ15章)
聖書箇所は、ルカの福音書15章8節から10節です。
共観福音書に並行個所はなく、ルカ単独の記事です。
●8節.「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
「ドラクメ銀貨」は当時ほぼ一デナリウスに相当したそうです。
一デナリウスは労働者一日の賃金ですから、「ドラクメ銀貨十枚」は、 現在のわたしたちの感覚からすると月収の三分の一程度の金額でしょう。
女は、「ドラクメ銀貨十枚」を不時の出費に備えて蓄えていたのでしょう。
この女性が貧しい寡婦であれば、「ドラクメ銀貨十枚」は相当大きな金額であったと思います。
銀貨は紐に通していたでしょうが、何かの理由で紐が切れたのでしょうか。
地に落ちた銀貨の内九枚はすぐに見つかりましたが、一枚だけ見つからなかったのです。
そういう女にとって銀貨一枚は貴重です。
懸命に探したのですが、部屋の中は暗くなかなか見つかりません。
「ともし火をつけ」家の中を隅々まで掃き、見つけるまで念を入れて捜します。その様に「念を入れて捜さないだろうか。」とイエスは言われます。
そうすることが当然だと言われているのです。
●9節.そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
銀貨が見つかったときの女性の喜びようは大変でしょう。
女性は喜びの余り、友達や近所の女たちを呼び集めて、失った銀貨一枚を見つけたことを一緒に喜んでくれるように呼びかけます。
おそらくお菓子の一つでも振る舞ったことでしょう。
当時の隣人関係は、助け合わなければ生きてはいけない時代ですから、人間関係も現在のように希薄ではなかったのでしょう。
●10節.言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
「このように」、すなわち失った銀貨を見つけた女性が友達や近所の女たちを呼び集めて一緒に喜ぶように、一人の罪人が悔い改めて神のもとに帰ってくるならば、神は天使たちを呼び集めて、喜びを共にされるのだとイエスは言われているのでしょう(ルカの福音書15章7節を参照)。
失われたものが見いだされた時の喜びを語るたとえ話は、この15章には三つ置かれています。
その中の「無くした銀貨」のたとえと「見失った羊」のたとえは、いずれも熱心に探すと言う行為に重点を置いて、それが当然の行為とされています。
神の人間に対する愛の深さを教えておられるのでしょう。
もう一つの「放蕩息子」のたとえは、放蕩息子(失われた側)の悔い改めに重点が置かれていると思います。
これは逆に人間側の悔い改めの大切さと悔い改めれば誰でも許されることを教えておられるのだと思うのです。
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