罪深い女を赦す(ルカ7章)
聖書箇所は、ルカの福音書第7章36節から50節(36節から43節まで登載省略)です。
●44節.そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
●45節.あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
●46節.あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
●47節.だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
●48節.そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
●49節.同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、一体何者だろう。」と考え始めた。
●50節 . イエスは女に、「あなたの信仰はあなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
この話が語られた場所は、ファリサイ人(ユダヤ教の中の一宗派ファリサイ派に属する人)であるシモンの家です。
町の名士であるファリサイ人が、イエスを憎んでいるにもかかわらず、自分の食卓に客人として招いたのです。
イエスがなされる力ある業(奇跡)と教えで、大衆の間でうわさになっていたイエスがどんな人間か見てやろうという好奇心が強かったのでしょうか。
ところが、この食卓の場にふさわしくない者があらわれたのです。
それが、社会的に罪深い女としてさげすまれている代表的な存在である売春婦でした。
ところで、本当のところこのシモンがどのような理由でイエスを食卓に招いたのでしょうか。
当時、客人としてラビ(ユダヤ教における宗教的指導者を指す)を迎えるには、あいさつとして接吻をし、足を洗う水を用意し、少しの香料を焚くかバラのエッセンスオイルを頭に一滴たらすのが通常であったそうです。
ラビは先生という意味で、イエスはラビとも言われていました(ヨハネの福音書第 1章38節)。
シモンは、イエスを先生と呼んで尊敬を言葉で表してはいるのですか、行為としては何一つ表していません。
ですから、シモンがイエスを先生と呼んだのは当てつけであったのかもしれません。
それに売春婦として悪名高いこの女が、このような公の場、いわば高名な人々の集まる食事会に姿を現すのは通常考えられないことです。
さげすむような蔑視の目、悪意の目は予想できたに違いありません。
それでも、この女はその場に自分の身をさらけ出しました。
その動機は何だったのでしょうか。
当時のユダヤ人の女の人は雪花石膏という高価な壷に香油を入れて、それを唯一の財産として持っていたということです。
この女の人はイエスの足に高価な香油を塗り、泣きながら、自分の髪をほどき、その髪でイエスの御足をぬぐい、御足にくちづけしたのです。
よほど嬉しかったのでしょう。
ひょっとして、イエスに生まれて初めて人間として扱ってもらえたのかもしれません。
当時、女の人は髪を縛っていたのですが、それは人前で髪をほどくことはとても恥ずかしいことだとする習慣があったからだそうです。
それなのに、(イエスの足をぬぐうために)髪をほどいたということは、この女の人にはただただイエスのことしか目に映っていなかったことを表しています。
身も心もイエスにすがっている姿がそこにはあります。
そればかりか、油を塗り、髪の毛でぬぐい、御足にくちづけしています。
ここまで、なりふり構わずイエスの前に身をさらけ出すと言うことは、もう以前にイエスを知っていてすでに自分の罪を悔い改めた人だったのでしょうか。いや、現役の売春婦だとするとそのようには思えません。
ファリサイ人は日ごろから売春婦をさげすみ、忌み嫌っていましたから同席するのも避けたはずです。
ましてや、食事をともにするなどとんでもないことです。
しかし、イエスはこの売春婦の行動を喜んで受けられました。
これもまた、周囲の人には輪をかけてショックだったと思います。
売春婦にとっては、そのようなことすべてを承知の上でのことだったと思います。
宗教国家であるイスラエルでは、今のわたしたちよりはるかに信仰による教えを守れないことによる罪悪感は強かったと思います。
当時のイスラエルは神が与えられたと言う律法、モーセ五書を守る人が立派な人で、天国に行けると信じられていました。
ある意味、それが社会の価値観のすべてだったと思います。
この売春婦は、日ごろからそれを守りたくても守れないジレンマを抱えていたのでしょう。
当時噂になっていた、ラビと言われていたイエスのことを聞き、きっと、あのお方だけはわたしを受け入れてくださる、と思ったのだと思います。
当時のイスラエルは宗教国家ですから、一人前の人間として扱われるのは、信仰による行いがすべてのところがあります。
律法は行いの規定です。その律法を十分に守れない売春婦にとって、神の赦しがどうしても必要だったのだと思います。
だから、彼女は他の人がどのように思おうと宗教的に罪の許しがほしかったのでしょう。
この方なら自分の置かれた立場が分かってくださると、必死の思いでラビとしてのイエスにすがったのだと思うのです。
ここで、悔い改めるとはどういうことかを学ぶことが出来ると思うのです。
悔い改めるとは、自分の罪を責めて自分の努力で自分を正しい人間に変えようということではなく、もう自分がどんな者かおかまいなしに、ただ、ただ、神の前に自分をさらけ出して、その足元に身を投げ出して恩恵にすがることなのだと言うことが分かります。
すがって、身を投げ出せば必ず罪の中から救い出して下さる、信仰とはそのことを信じて行うことなのだと教えられます。
フワリサイ人のシモンは善人で、敬虔な人でしたでしょう。
、彼はイエスを必要とはしなかったのです。
この女は罪深い者でしたが、その罪も、生活のためにやむを得ないので犯していた罪です。
この頃の寡婦は売春しか生活の糧を得る手段がなかったのです。
いわば社会がそのようにさせている所がありました。
だからあるいみ、この売春婦にはなんの罪もないといえばいえるのではないでしょうか。
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