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2018年6月 3日 (日)

サマリア人から歓迎されない(ルカ9章)

聖書箇所は、ルカの福音書第9章51節から56節です。

この箇所は、ルカの福音書単独の記事です。

いよいよイエスは最後の旅エルサレムに向かわれます。

ルカの福音書では、9章51節から19章28節まではエルサレムに入られるまでの旅の記録ですが、内容はルカによるイエスの教えや語られた言葉が大部分です。

●51節.イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。

イエスは「エルサレムに向かう決意」と書いてありますから、エルサレムではご自分が十字架で殺されることを自覚しておられて、あえて行かれたということでしょう。

そして、エルサレムへは、おそらくユダヤ教徒として過越祭の日を目指して行かれたのでしょう。

イエスのエルサレム行きは、共観福音書は十字架前の一回のみ、ヨヘネの福音書は三回行かれたことになっています。

わたしは、ヨハネの福音書が正しいと思います。

イエスを逮捕して殺したユダヤ教祭司長たちは、ガリラヤではイエスを逮捕できなかったが、自分たちの強力な支配下にあるエルサレムでは逮捕できると思っていたことでしょう。

イエスがエルサレムへ行かれて逮捕されたのはただの偶然ではなく、イエスご自身の自発的な決意であった、ということがここにははっきりと語られています。

●52節.そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。

●53節.しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。

解説によると、巡礼者がエルサレムへ向かう道は二つあるということです。

サマリアを通る道と、サマリアを避けてヨルダン川の東側を迂回する道だということです。

サマリアを通る道の方が近いのですが、ユダヤ人は、サマリアは異邦人の町なので、サマリアの人を蔑み交際はしていませんでした。

したがって、ユダヤ人は、サマリアを避けて、普通はヨルダン川東の遠い迂回路を通ったということです。

しかし、イエスはあえてユダヤ人が嫌っている、サマリアを通る道を選ばれました。

イエスの中では、ユダヤ教徒とサマリア教徒とも同じなのです。

差別することなく、同じように「神の国」を告げ知らせようとされたのでしょう。

「イエスのために準備する」(52節)というのは、普通は泊まるところなどを準備することを言うのでしょうが、イエスのためにとなっていますから、イエスの宣教活動の下準備も含まれているのでしょう。

イエスの使いの者たちがサマリアに入ると、村人はイエスを歓迎しなかったとあります(53節)。つまり、村に入るのを拒否したのです。

その理由は「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。」とあります。

これはおそらく、サマリアの人たちは、イエスの一行がエルサレムに向かうユダヤ教徒の一団であることを知り、ユダヤ教徒に対する敵対意識から村に入ることを拒否したのだと思います。

●54節.弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。

●55節.イエスは振り向いて二人を戒められた。

●56節.そして、一行は別の村に行った。

使いの者たちの報告を聞いて弟子たちは腹を立てます。

ユダヤ教徒である弟子たちは、サマリア教徒の相変わらずの敵意とイエスに対する侮辱に憤慨し、中でも気性の激しいヤコブとヨハネの兄弟は、「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と過激な発言も飛び出します。

無邪気なものです。

「天からの火を降らせ」という表現は旧約聖書にもよく出てきます。

例えば、列王記上一八章とか列王記下一・九以下などです。

ヤコブとヨハネがこのように言ったのは、念頭にはエリヤについてのこのような聖書の伝承があったからでしょう。

このようなヤコブとヨハネの発言にイエスは「振り向いて戒め」(55節)られます。

なお、ここの記事では、イエスはサマリアには歓迎されなかったとなっていますが、ヨハネの福音書第4章でも、イエスはユダヤでの活動を終えてガリラヤに帰られるとき、サマリアを経由されたと書いています。

サマリアでの出来事で有名なのは「イエスとサマリアの女」の出来事です。

また、サマリアでも教えを説き、イエスを信じる者が出ています。

だからサマリアは決して、イエスが宣教するのを全く拒否したのではなく、また受け入れる人がなかったので単に通過されただけでもありません。

しかし、次のようなイエスの言葉もあるのです。

マタイの福音書第10章5節「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。」。同6節「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」

これは十二人の弟子たちを派遣される時のイエスの言葉です。

ヨハネの福音書が伝えるサマリアでのイエスの活動と矛盾するのです。

どのように受け止めれば良いのでしょうか。

どちらにしても、イエスが十字架で殺され、復活された後には、エルサレムの共同体がサマリアにペトロとヨハネを派遣して福音の働きを進めています(使徒言行録八章)ので、イエスがこの世に派遣されたのは、第一義的にはイスラエルの迷える子羊のもとと言えますが、第二義的には、異邦人に対する宣教活動で、それは、ご自分が十字架死の後、降臨した聖霊と弟子たちに委ねられました。

それに、イエス自身も憐れみゆえに異邦人に対しても癒しの御業をなされたこともあり、宣教活動もされています。

したがって、マタイの福音書第10章5節6節のイエスの言葉は、何かの事情があって言われたもので、絶対的なものとして取る必要はないのではないでしょうか。

物事の順序、優先順位ととりたいと思います。

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