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2018年6月18日 (月)

悔い改めなければ滅びる(ルカ13章)

聖書箇所は、ルカの福音書13章1節から5節です。

この記事は共観福音書に並行箇所はなく、ルカ単独の記事です。

12章1節から始まった、終わりの日の裁きが迫っていることを主題とする忠告が、ここと次の「実のならないいちじくの木」のたとえで締めくくりとなります。

どちらも悔い改めを求めています。

●1節.ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。

「ちょうどそのとき」というのは、これがどういうタイミングだったかと考えますと、イエスが群衆に向けて話をしておられたちょうどその時、ということでしょう。

その話の内容は、今の時がどういう時であるか、それは、あなたを訴える人と一緒に役人のところに向かっているような時、自分を訴える人が、自分を裁判所に引っ張っていく、それが今の時なんだ、と言っておられるのです。

このままでは、あなたがたは訴えられて、牢屋に入れられますよ、ということです。

この話で、わたしたちは皆、神に背く罪びとで、神よりも、他の誰よりも、自分を真っ先に愛してしまうのです。
そのようなわたしたちに対して言われているのでしょう。

今の内に神様と仲直りしなさい、和解しなさいと言われているのです。

これはこの場にいた人たちだけではなくて、後世のわたしたちを含めた全員に言われているのでしょう。

そのような話をしているときに、ピラトがガリラヤ人(複数)を殺戮した、すなわちピラトが殺人事件を起こしたのです。

ピラトというのは、ローマ総督ピラトのことです。

ピラトはイスラエルを支配するためにそのローマからやってきた役人です。この物語は、そのピラトが、「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」ですから、このガリラヤの人たちが、エルサレムの神殿で神様にいけにえをささげていたまさにその時に、ピラトの手下の兵隊たちがそこに入り込んできて、その人たちを殺した、ということでしょう。

ピラトという人は残酷な人だったということで、歴史書にもそのように書かれた記録が残っているそうです。

ですから、この事件は実際に起こった事件に間違いなさそうです。

神殿で儀式をしているときに外国の兵隊がいきなり入ってきて、人を殺したわけですから、大変な出来事です。

そのことが、イエスや周りにいた人たちに伝えられました。

記録では、サマリア人はこの事件をローマ側に訴えたので、ピラトはその殺人事件の責任を問われて召喚されることになるとい言うことです。

なお、ガリラヤはローマの支配からの解放を目指す革命運動(熱心党を中心に)の盛んな地であったということです。

しかし、「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」というのはどういうことでしょうか。

「彼ら」とはピラト配下のローマ軍の兵士の血と受け取れます。

そして、「いけにえ」は神殿にささげられた犠牲の動物(の血)だと思いますから、ピラト配下のローマ軍が献げたいけにえの血にガリラヤ人の血を混ぜたことになります。

ということは、ローマ軍が行うローマの宗教(ユダヤ教でない)の祭儀でささげられた犠牲の血に、この事件の犠牲者の血(ガリラヤ人の血)を混ぜたことになりますから、これはユダヤ人に対する強烈な冒涜というか、挑発になります。

ローマはその強大な軍事力で、ユダヤ人の武装闘争を70年に鎮圧します(ユダヤ戦争)が、400年後には、ローマ市民の半数以上がキリスト教徒になり、ナザレの大工イエスの足もとにひれ伏すことになります。

ローマ帝国は391年にキリスト教を国教とすることになります。

かつての支配者ローマは無血でキリスト教に支配されることになるのです。

これは神の必然です。

●2節.イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。

●3節.決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。

イエスはこの事件を用いて、この終わりの日の裁きに備え、民に悔い改めをうながしておられます。

罪深いからそのような災難に遭うと言う考えは、当時のユダヤ教徒の考え方で、それは、律法を順守していれば、神の守りと祝福にあずかれるが、律法に反する罪深い生活をすれば神の裁きにより不幸と災禍に陥るという考えです。

イエスは3節で、「決してそうではない」と言って、この考えをきっぱりと否定されます。

律法を順守して罪のない生活をしておれば、神の守りと祝福にあずかれるというのは、律法を守ると言う行いを持って神の祝福にあずかれるとする考え方です。

それは自分の行いを義(正しい)とする考え方です。

これだと救われるための主導権は人間にあることになります。

でも、よく考えれば、何が義であるか何が不義かは人間が決めることではない。

人間社会は相対的で人間はすべて罪びとですから、そのようなことを認めれば罪びとが罪びとを裁くことになります。

人間はみな神の裁きの前では平等で滅ぶべき存在です。

神の無条件の赦しの恩恵によらなければ救われません。

造られた者は造った者のご計画に従うのが幸せになるための道です。

3節の「皆同じように滅びる」は、ピラトのために悲惨な目に遭ったガリラヤ人だけでなく、自分を義人と称しているユダヤ教律法学者らも滅びるということでしょう。

人間の尺度からする義人も罪人も関係なく、終わりの日の神の裁きの前では皆同じように滅びると言われています。

滅びないためには、自分で自分が正しいとし、自分の正しさに依り頼まないで、自分の無価値とアダムのときから神から離反して自己中心的に生きていることを罪と認め、そのような自分を神の無条件の赦しの恩恵に委ねなさいと言われています。

これが「悔い改め」でしょう。

この悔い改めをせず、自分の義に固執する限り、すべての人は「皆同じように滅びる」ことになるということでしょう。

●4節. 「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。

●5節.決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。

再びイエスは、シロアムの塔が倒れて18人が死んだ災難を取り上げて同じことを語られます。

ここでわざわざシロアムの事件を用いておられますから、当時としてはこの事件は有名な事件であったのでしょう。

シロアム池は貯水池(ヨハネの福音書9の7)ですが、何か工事用の塔でも建っていてそれが倒れたのでしょうか。

こうしてイエスは、そのときに有名であった事件を用いて、終わりの日の裁きの時に備え、悔い改めるように招かれます。

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