安息日に水腫の人をいやす(ルカ14章)
聖書箇所は、ルカの福音書14章1節から6節です。
共観福音書の並行個所はなく、ルカ単独の記事です。
●1節.安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
ここで問題になるのは、いやしがなされた場所が、ファリサイ派の議員の家であることと、その癒しが安息日に行われたことではないでしょうか。
おそらく、会堂での安息日の集まりが済んだ後で、その議員がイエスを食事に招いたのでしょう。
その時の出来事と推測すると、ファリサイ派の「議員」ですから、おそらく最高法院の議員のことで、この人は地域の有力者であり、ユダヤ教社会の上層階級の人で指導的立場の人物であったと思います。
この食事の席もかなりの規模であり、多くの客が招待されていたのでしょう。
●2節.そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。
●3節.そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」
「水腫」という病気は、血液中の水分が何らかの原因で大量に体の組織内に移動したときなどに起こる組織の機能障害を指すそうです。症状はむくみです。胸腔内に溜まれば「胸水」と呼ばれ呼吸困難を引き起こします。
イエスの前にいた人は重い水腫で、ひどいむくみが現れていて、一目でそれとわかったと見られます。
イエスは誰の依頼もないのに、この病人を見て憐れみ進んで病人をいやそうとされます。
側には律法の専門家たちやファリサイ派の人々がいるのを知っておられます。
イエスは彼らに「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」と質問されます。
イエスはまず律法が定められた意義を律法の専門家たちに教えようとされたのでしょうか。
ユダヤ教の律法では、安息日に病気をいやす行為は仕事の一種として、基本的には許されていません。
命にかかわる緊急の場合は例外として認められてはいますが、「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」(ルカの福音書13章14節)というのがユダヤ教律法の原則です。
●4節.彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。
この水腫の人の場合は長い間この状態ですから、いやしの行為は、緊急性はなく明日でもよいのです。
だから水腫を安息日にいやすことは、律法では許されない行為となります。
「彼らは黙っていた。」と言うのは、おそらくイエスの癒してあげようという強い意志を見て、律法では「許されていない」と答えることができなかったのでしょう。
イエスは議員らの返事を待たないで、沈黙している彼らの目の前で病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになります。
●5節.そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」
その上でイエスは、彼らにさらに「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」と問いかけられます。
●6節.彼らは、これに対して答えることができなかった。
イエスは緊急の場合の例をあげて再び質問します。
これにも彼らは応えることができません。沈黙します。
彼らの二度の沈黙は、立場上安息日でも治療行為は「許されている」とは答えられないからです。
「許されていない」と答えれば、イエスはおそらく、それではわたしのいやしの力はどこから来ているのかと問われます。。
いやしの力は神から来ているのは明らかだから、その様に応えるとイエスは神と共におられ、その力は神からのものと認めてしまうことになります。
律法では許されなくても、律法を与えた同じ神の恵みの力でいやしが行われれば、そこには律法の規定を定められた神の力が働いているのですから、律法の規定など無意味だということになってしまいます。
そうなると自分たちの権威というか、存在根拠が亡くなってしまいます。
だから沈黙するしかなかったのでしょう。
さぞ、彼らは腹立たしかったでしょう。
その腹立たしさがイエスを十字架に架けることになってしまうのです。
そう、イエスの安息日にされた行動と安息日に関する発言を重要な理由となって、イエスは殺されてしまうのです。
ルカは異邦人(ユダヤ人以外)を対象に福音書を書いています。
異邦人にとっては、律法違反などそれほど切実な問題ではありません。
それでもルカは、律法の象徴的な問題である安息日問題をこのようにていねいに取り扱っているのは、イエスが律法学者たちからの批判を承知しながら、あえて繰り返し安息日に病人をいやされた事実を知らせたかったからではないでしょうか。
ルカは、安息日の問題が、イエスが十字架に架けられた最大の理由であることを言いたかったのではないでしょうか。
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