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2018年6月 5日 (火)

マルタとマリア(ルカ10章)

聖書箇所は、ルカの福音書10章38節から42節です。

この記事はルカ単独の記事です。

●38節. 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

マルタとその姉妹マリアはベタニア村の出身です(ヨハネの福音書11章1節)。
ベタニアはエルサレムから十五スタディオン(三キロ弱)のところにある村です(ヨハネの福音書11章18節)から、歩けばエルサレムから半時間程度です。

イエス一行はもうエルサレムの目の前に来ていたのです。

なお、ルカの福音書ではイエスのエルサレムへの旅は始まったばかりと思いますが、これはちょっと早すぎはしないかと思うので調べてみると、ルカの記事は、物語としてみる必要があるので、物語の配置とか地理的・時間的なことは無視される傾向があるということです。

イエスはそのマルタという女の家に入られました。

なぜ、マルタの家に入られたかは、マルタにはラザロという兄弟もいて、イエスはこのマルタ・マリア・ラザロの兄弟姉妹と親しくされていたからではということでしょう(ヨハネの福音書11章)。

イエスは何度も(ヨハネの福音書によれば少なくとも三度は)エルサレムに行っていますから、その都度マルタとその姉妹の家には泊まっておられたのでしょう。

●39節. 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。

マリアはマルタの「姉妹」とあるだけで、どちらが姉か妹かは分かりません。しかし、状況からみて、マルタは長女で、マリアはその妹、ラザロはその弟と推察されます。

マリアはイエスの足もとに座って、イエスの話に聞き入ります。

●40節. マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。

マルタは長女で、おそらくすでに両親がなくなっていたその家を取り仕切っていたのでしょう。

マルタは、イエスとその一行がベタニアに来て泊まったときには、 一行をもてなすために台所で忙しく立ち働きます。

そのマルタが、イエスの足もとに座って客の世話もせず、じっとイエスの話を聞いているマリアを見て、こう言ったのも当然の感情として理解できます。

なお、ここでマルタがイエスに「主よ」と呼びかけているのは、メシアを指すような深い意味はなく日常的な会話での呼びかけ、とくに 目上の人や男性に対する呼びかけと見るべきではと書かれた解説がありました。

●41節. 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。

●42節.しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。

イエスが「マルタ、マルタ」と名を繰り返して呼んでおられます。

イエスの優しい思いやりが感じられます。
イエスはマルタの奉仕を受けながら、この状況でマルタに重要な事柄を教えようとされています。

イエスが答えられた内容41節と42節のポイントは二つ、「多くのこと」と「ただ一つ」のことです。

「多くのこと」というのは、この世を生きるに際し、避けられない日常雑多なことでしょう。

それは、学校、仕事、家族、他者との人間関係、病気などでしょう。

わたしたちは生きていくうえで、それら多くのことを思い煩い、心を乱すことも絶えません。

「ただ一つ」のことというのは、神が求められるただ一つのことで、それは、わたしたちが神に受け入れられ、神からの恵みと祝福を受けるために必要なことです。

それは、神の言葉を聞くことだけだということでしょう。

イエスは、この神の言葉を語る者として、生活の中での思い煩いの中にいるマルタに優しく諭されたのでしょう。
マリアもこのような多くの日常雑多な出来事から来る思い煩いの中で毎日を送っていたのでしょう。

しかし、今はイエスのもてなしの準備をすることでなく、神の言葉を語るイエスにじっと耳を傾けるほうを選んだのです。

イエスの言葉は神のみ言葉です。そこには聖霊が働かれていたでしょうから、マリアの心はきっと喜びと平安に包まれていたでしょう。

マリアが選んだこと、すなわちイエスを通して語られる神の言葉を聞く恩恵の機会を、彼女から取り上げてはならない、とイエスは言われているのです。

いま、マリアにとっては最も大切な時なのです。

毎日の生活がどのように忙しくても、複雑な現代社会に対応するため必要なことがどれほど多くても、それを理由にこのイエスの言葉を聞く機会を取り上げてはならないのです。

イエスの言葉を聞き受け入れるには、その時があるのです。

もしわたしたちの人生で、その様な時があれば、それはその人にとって恩恵による神の時なのですから、その時を妨害してはいけないということでしょう。

イエスはこのように「その時」と今はどちらが大切かと言う「選択」を多く用いられます。
それは、この世のすべての出来事は相対的であるからだと思います。

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