「見失った羊」のたとえ(ルカ15章)
聖書箇所は、ルカの福音書第15章3節から7節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第18章12節から14節です。
●Ⅰ節.徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
●2節.すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
●3節.そこで、イエスは次のたとえを話された。
徴税人と罪人はひとくくりにされています。
解説では、「徴税人」というのは、ローマ皇帝に納める税の徴収を請負っている「徴税請負人」の下で徴税の実務を担当する人たちで、当時のユダヤ教社会では、支配者であり異邦人であるローマ人の手先になって税金を自分たちから徴収している、嫌われ者というか汚れた者であり、同胞の苦しみを食い物にして私腹を肥やす者として忌み嫌われていました。
既定の徴収額より多く徴収することもあったようです。
また解説では、この「罪人」というのは、わたしたちが刑法を犯すとか、当時では律法規定に違反した者というのでもなく、生きていくためには律法に違反する職業につかざるを得ない、汚れた生活をせざるをえない社会階層の人たちを指しているのではないでしょうか。
その中には、病気や障害から貧しい生活を強いられて、律法を学ぶことも守ることができない者も含まれていました。
徴税人や娼婦がその代表ということでしょう。
人びとの献金で生活しているので、暇と金があり律法を守ることのできる、また、律法を守ることを誇りとしている「ファリサイ派の人々や律法学者たち」は徴税人や娼婦を罪人と呼び蔑みました。
安息日でも休むことのできない仕事もあるでしょうが、それらは貧しい人々にゆだねていたのでしょう。
彼らは自分たちに都合よく解釈した律法規定を厳格に守る者が「義人」であり「清い者」であり、神からの祝福にあずかる資格のある者とし、自分たちを「義人」として律法への熱心を誇っていました。
彼らは、触れると汚れに感染するとして、いわゆる罪びとと言われる人たちに近づくことも避けていました(ルカの福音書第7章39節)。
ましてや一緒に食事をすることなど、とんでもないことです。
イエスはそのような律法学者らを偽善者として叱責されています。
イエスは、イエスの話を聞こうとして近寄って来る徴税人や罪人を避けることなく、自分の仲間として迎え入れ、食事まで共にされました(2節)。
そのようなイエスを見て、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と非難しました。
彼らから見ると、イエスの行動は義人にあるまじき行為として批判の対象になったのでしょう。
このようなファリサイ派の人々や律法学者たちがいう罪人と食事を共にしたご自分への批判に答えるために、イエスはたとえを語られます。
●4節.「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
●5節.そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
●6節.家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
このたとえの共観福音書の並行箇所は、マタイの福音書第18章12節から14節ですが、文脈が少し違います。
ルカでは羊飼いが羊を「見失う」のですが、マタイでは羊が群れから「迷い出る」と表現されています。
羊は、野獣に襲われるとか、牧草にありつけなければ死にます。
だから羊飼いあっての羊、羊あっての羊飼いなのです。
羊飼いは、わたしたちがペットである犬や猫に名前をつけて呼ぶのと同じように羊に名前をつけて呼んで世話をしていたということです。
そのような羊飼いにとって、羊を見失うことは身内をなくすのと同じで、耐え難いことであったでしょう。
羊はすぐに群れから迷い出ますので、羊を見失うことは当時の社会では、ありふれた光景であったのかもしれません。
羊は、迷い出ると、ほっておいても戻って来るような習性は皆無だということです。
迷い出ることは、崖から落ちてしまうかもしれないし、狼に食べられてしまうかもしれないので、非常に危険なことです。
羊は身を守るすべも持っていません。
だから、もし羊飼いは羊を一匹でも見失えば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を一時でも早く見つけ出すまで捜し回らなければなりません。
イエスは羊を我々罪人である人間に、羊飼いを、我々を創造された神にたとえられているのでしょう。われわれはそのようなひ弱な羊と同じ存在なのです。
イエスは神から離反した「失われた者」を探しにこの世にこられました。
神の子としての切実な思いを重ねておられるのでしょう。
このたとえ話には、迷える子羊であるわれわれを一人でも失いたくないという神の思いが込められていると思うのです。
群れから迷い出た羊は、弱り果てて歩くこともできません。
羊飼いは、見つけた羊を「担いで」(5節)、すなわち肩に担いで両足を前で交差して握り、大喜びで家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて祝います。
もちろん、本当にそのようにしたかわかりませんが、当時羊は貴重な財産であったでしょうから、それほど喜ばしいことであったのは間違いないでしょう。
マタイの福音書の並行記事は、「もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」と言う言葉で締めくくっています。
●7節.言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
ルカの福音書は迷った羊が救われることよりも「悔い改め」を重視しています。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカの福音書第5章32節)とある通りです。
その悔い改めは、罪人がその律法違反の生活を悔いて、律法を順守し、「義人」になることを意味するのではなく、神に立ち帰ることを求めていると思います。
この「義人」と言うのは、正しい人のこと、すなわち、神との関係が正しく守られている人のことを言います。
正しく守られていると言うのは、神に正しく忠実である人のことでしょう。
イエスが神の子としてこの世にこられることにより、この世はサタンの支配下から神の支配下に入りました。
そしてイエスは、全ての人々に神の無条件の恩恵(無条件による罪のあがないと救い)がもたらされたことを明らかにし、律法を守ろうとするが守れない人々に対し、自責の念や絶望というような事態に陥るのではなく、自ら神に立ち帰り神の赦しと救いの恩恵に自分を委ねなさい、と言われているのだと思います。
放蕩息子(ルカの福音書15章)のたとえ話と同じことを言っているのだと思います。
ここで悔い改めを求めるのは、わたしたちアダムの子孫である全ての人間に求められていることでありますが、この時代のファリサイ派の人々や律法学者たちは、自分は律法を守って正しい生活をしているのだから悔い改める必要はない。
自分で自分を正しいとし、その正しさ(義)に寄り頼んで、自分たちは義人だから神の恩恵を必要としないということで、悔い改めを無視しました。
イエスはそういう彼らを偽善者と呼びました。
現在を生きるわたしたちにもそのような傾向があると思います。
何が正しいか正しくはないのかは、自分たちの行いで決めるのではなく、神の御心に沿って生きているかどうかで決まるのです。
そして、神の御心に沿って生きているかどうかは神が決められるのです。
ルカの福音書10章17節以下の「七十二人、帰ってくる」のところで、派遣された弟子たちのイエスの名による活躍に「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」とイエスは言われています。
この世の出来事の結果は天にもその影響を及ぼすことを表しています。言い換えると、この世と天とは一体として動いているのです。
この人たちは、自分たちだけを義人とし、イエスがもたらされた神の恩恵による支配を、拒んだのです。
イエスは、神から遠く離れたわたしたちが、罪に埋もれて苦しんでいるのを見て憐れまれ、一人でも神の恩恵の支配に身を委ね神に立ち帰る者があれば、天に大きな喜びがある、と言われました。
頼るべき何ものも持たない、また、自分の義を言い立てることができない「貧しい人たち」は、幸いであるともいわれました。
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