婦人たち、奉仕する(ルカ8章)
聖書箇所は、ルカの福音書第8章1~3節です。
共観福音書には並行個所はなく、ルカ単独の記事です。
●1節.すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。
●2節.悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、
●3節.ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。
まず、当時の女性達が生きている社会の背景について調べてみました。
当時の様子を簡単にまとめてみると、イエスの頃のガリラヤの状態は、基本的には家父長制に基づく男性優位社会であったと言うことです。
農作業は男女共同で行われ、自給自足の経済に依存していたと言うことです。
農村では農作業の傍ら、女性はパン焼き、粉ひき、料理、食糧の加工と保存、糸紡ぎ、育児、水汲み、洗濯、織物、手芸などをも受け持っていましたから、家の経済は主婦が管理していたので、家の中の実権は事実上主婦にあったと思います。
もちろん、上層階級や都市での生活は、また違った生活様態であったと思います。
農民の生活は厳しく、栄養失調による幼児の死亡率が高いようで、生まれて1年以内に30%、10年以内には50%が死亡し、30歳代までには75~80%の人々が栄養失調や飢饉で死亡したと推定されています。
貧しさから来る病気だけでなく、干ばつ、水不足、害虫、伝染病などの災害があり、さらに、戦争によっても多くの人たちが殺されたということです。
当時は奴隷制度もありましたから、貧しさの余り女性の身売りなどもあったと思います。もちろん、売春で生計を立てる女性もいたでしょう。
さて、福音書でイエスと女性に関わる個所から主なものをひらって見ますと、出血の女性の癒やし(マルコの福音書5章25~34節)とか罪ある女性の香油注ぎと口づけ(ルカの福音書8章36~50節)。
サマリアの女性との対話(ヨハネの福音書4章7~30節)とか姦通の女性を赦す(ヨハネの福音書8章1~11節)、マルタとマリア姉妹(ルカの福音書10章38~42節)、やもめの献金(ルカの福音書22章1~4節)、十字架の場の女性たち(マタイの福音書27章55~56節)、マグダラのマリアと復活したイエスの出会い(ヨハネの福音書20章11~18節)などでしょう。
これらの福音書に出てくるイエスと女性の関係のほとんどが律法違反で、あとは当時の社会慣習から見てとても許されない行為であったと言えます。
たとえば、異邦人の女性とユダヤ人の男性とが言葉を交わすことに問題があるとか、月経などの女性の出血は汚れたものとされていましたので、そのような汚れた女性に触れると汚れるとされていました。
ところがイエスは、慣習とか律法にとらわれない、型破りな方法で女性に接しておられます。
ただし、イエスが律法や慣習に左右されなかったのは、女性に対してだけではありませんから、女性が特別というわけではないのです。
それでも、イエスは女性に対して人間として差別意識なく対応された人類最初の人間であり男ではないでしょうか。
マタイの福音書27章55~56節の男性たちがほとんど逃げ去ったにもかかわらず、女性たちが、危険をも省みずに(政治的な反逆者に荷担した女性は殺されるか奴隷にされる危険がありましたが、女性はあまり重要視されなかったので身の危険は低かったという意見もあります。)、最後まで十字架の近くに踏みとどまっていたということです。
ヨハネの福音書20章11~18節11では、イエス復活の最初の証人たちが女性であったということです。
女性が証人になるなど当時は考えられないことでした。
問題は、なぜこれらの女性たちは当時の女性としては考えられない行動、つまり、批判や危険を冒してまでもイエスに従ったのでしょうか。
どうやら、イエスの女性に対する対応とか教えに原因がありそうですがいかがでしょうか。
イエスの言葉は、差別されていた女性を勇気付けたと思うのです。
振り返って、現在の教会でも女性の存在は男性よりも大きな位置をしめます。
女性の活動なくして教会は成り立ちません。
クリスチャンの数は女性の方が圧倒的に多いと言うことです。
信仰的に見れば、女性のほうが幼子のようになりなさいというイエスの言葉にふさわしい存在なのでしょう。
男は理屈が多すぎて素直に信じることが不得手なのでしょうね。
わたしも含めて・・・・。
女性は、イエスを通して働いておられる神の聖霊の働きを本能的に受け取る、女性の方が男性より素直といいますか、新しい事態を受け容れる能力、つまり、順応性に優れているということでしょうか。
男性は理屈が多く、まず疑うことから始めることが多いと思います。
イエスの御霊の働かれる場にあっては、「もはや、ユダヤ人かギリシア人かはなく、奴隷か自由人かもなく、男と女もない。だからあなたがたは、皆、キリスト・イエスにあって一つである。」(ガラテヤの信徒への手紙第3章28節) が実現しつつあったのでしょう。
このことは、当時の社会では大変なことです。
このガラテヤ書でパウロが言いたいのは、人種的、宗教的、社会的に極端に違う者たちを例として、これら男女の差別さえもイエスの御霊の働きの前では根本的に解消されるといいたかったのでしょう。
もちろん、これも現在進行形です。
ただし、男女の差別は無くなりますが区別はあります。
男女の区別それ自体は、神によって定められたものですから、この違いを解消することはできないでしょう。
むしろ、男も女もそれぞれ与えられた特質を活かして、互いに助け合い慰め合うのが、神の創造の御心だと思います。
従って、男女平等とは、互いに人格的に対等であるという意味だと思います。
男女の「差別」は解消される必要がありますが、区別は活かすべきだと思います。 神の御霊が働かれる場ではそれが当たり前だと言うことでしょう。
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