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2018年6月25日 (月)

「婚宴」のたとえ(ルカ14章)

聖書箇所は、ルカの福音書14章15節から24節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書22章1節から10節です。

このたとえは、マタイとルカの福音書にありますが、マルコの福音書にはありません。

マタイとルカ、両福音書の内容は大きく違いますが、基本的には本来の形を残しているのはルカの福音書ではないかと言われています。

ルカの福音書はマタイの福音書と違って、主人公は僕を一人しかもっていない「ある人」一個人ですが、マタイの福音書では多くの家来を持ち、軍隊を派遣することもできる王になっています。

したがって、ルカの福音書の宴会は一個人の宴会となり、マタイの福音書は王が王子のために催す婚礼の宴会になっています。

そのほかにも違いがあるのですが、後でその違いを読んでみたいと思います。

この宴会は、おそらく神の救いの恵み、つまり、神の支配の始まりを喜ぶ宴会と言うことではないでしょうか。

●15節.食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。

このたとえ話の前の個所14章7節から14節でイエスは「客と招待する者への教訓」を述べられましたが、これを聞いた客の一人が神の国の祝宴に招かれる者の幸いを思ってこのような発言したのでしょう。

ということは、この人はイエスの述べられた「客と招待する者への教訓」が神の国への招きのたとえ話であることを理解していたことになります。

この発言をきっかけにして、イエスはさらに神の国への招きのたとえ話を語られます。

●16節.そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、

●17節.宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。

「神の国」が大勢の人を招く宴会のたとえ話で語られています。

「宴会の時刻になった」とか「用意ができた」というのは、救済史、つまり、天地万物の創造者である神は、御自身に背き悲惨の中に陥っている人間世界を救済し、最後には大いなる祝祭を祝うために、計画を立て、歴史の中でその準備を進めてこられ、その準備ができたことを表していているのでしょう。

もちろん、イスラエルの歴史もその準備の一環です。

つまり、今や準備が整い、宴会を開く時刻になったので、神は招いておいた人たち、すなわちイスラエルの人たちにご自身の僕(単数形=イエスのこと)を遣わして、用意ができた宴会への招きの言葉を告知します。

まさに、マルコの福音書1章15節にある「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というイエスの言葉と同じです。

そして、次節でその招きの言葉に対しイスラエルの人々がとった対応を語られます。

●18節.すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。

●19節.ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。

●20節.また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。

イエスの招きの言葉を聞いたイスラエルの民は、神の恩恵の招きを拒絶したのです。イエスの十字架死は、そのことを表しています。

このようなイスラエルの民の姿をイエスは、畑を買った人、牛を買った人、妻を迎えた人をたとえとして語っておられます。

宴会への出席を断る理由を色々と挙げられていますが、要するに、イスラエルは、自分の都合で、つまり、自分たちが神のみ心を無視して作ったユダヤ教律法の規定にその招きが合わないという理由で、神からの終末的な招きを拒否したのだと思います。

●21節.僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
僕、つまり、イエスがこの事態を主人である父なる神に報告します。

報告を受けた主人は怒って、その僕に町の広場や路地へ出て行き、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を宴会に連れてくるように命じます。

それでは、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」と例示されている人たちはどのような人なのでしょうか。

ルカの福音書14章13節にも同じような例示があります。

この人たちの共通項は、ユダヤ教社会から疎外された人たちであることです。

つまり、ユダヤ教律法の場では罪人として排斥されている人たちで、神の民であるイスラエルの社会からこぼれ落ちた人々です。

イエスはこういう人たちのところにきて、神の恩恵の招きを告知されたのです。

このような人たちは、律法を守ろうと思っても守れない、ユダヤ社会から疎外されて、罪の中から救われる方法を持たない、頼るべきものが何もない人たちです。

もちろん、イエスの恩恵の招きが、ユダヤ教律法の規定に合わないからといって断るようなことは思いもよらないことです。

イスラエルは宗教社会です。宗教社会から疎外されると言うことは、その社会で人間として生きるべき道を完全に否定されると言うことになります。

その様な人たちにとっては、イエスの罪の許しと恩恵の支配の告知は、唯一すがることのできる、生きることが許された道であったと思うのです。

そのような人たちに向かって、イエスは「貧しい人たちは幸いである。神の国はあなたがたのものである」と宣言されたのです。

●22節.やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、

●23節.主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。

●24節.言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

神はイスラエルを選び人類救済のみ業を始められ、終わりの日の始まりの時にイエスをこの世に送り神の恩恵の支配の始まりを告知されましたが、イスラエルの宗教であるユダヤ教を代表する人たちはその招きに応じないで神の僕イエスを殺してしまいました。

神は本来、宴会に招くはずであったイスラエルの人々、つまり、間違った律法解釈と、それに支配されている人々ではなく、イスラエルの宗教支配から外れた律法もろくに守れない(守りたくても守れないと言う意味です)「貧しい人たち」を招かれて、終わりの日の救いの完成を喜ぶ祝宴に与ることになりましたが、まだ席が余っているので、主人は僕に「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言います。

少数の「貧しい人たち」を除いて、イスラエルの民は全体としてはイエスの神の支配の告知を拒否しましたので、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て・・」、すなわち、ユダヤ人以外の異邦人(=諸国民)を祝宴に招くように言われたのでしょう。

すなわち、この言葉はユダヤ人以外の違法の諸国民の救いの告知になります。

この福音書が作成された時には、すでに異邦人(ユダヤ人以外の諸国民)の人々が多くイエスの言葉を信じています。

したがって、この言葉はイエスの預言の言葉となるのですが、この福音書が著わされた時には、すでに預言が成就しているとも言えます。

24節の「あの招かれた人たち」というのは、本来神の国を受け継ぐように招かれたイスラエルを指すと思うのですが、イスラエルの人々にはイエスに従った「貧しい人たち」もいるのですから、イスラエルを代表する人たち、つまり、神の言葉である律法を委ねられた人たちを指すと理解したいと思います。

彼らは自分に都合よく律法を理解して、絶対化してそれに固執しました。

それがために、イエスが告知する神の恩恵の告知の意味が分からずに、自分の理解する律法と合わないことを理由に、イエスの告知を拒否し、つまり、十字架で殺してしまいました。

その人たちを指してイエスは「あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」と言われたのだと思います。

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