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2018年6月の記事

2018年6月29日 (金)

「無くした銀貨」のたとえ

聖書箇所は、ルカの福音書15章8節から10節です。

共観福音書に並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

●8節.「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。

「ドラクメ銀貨」は当時ほぼ一デナリウスに相当したそうです。

一デナリウスは労働者一日の賃金ですから、「ドラクメ銀貨十枚」は、 現在のわたしたちの感覚からすると月収の三分の一程度の金額でしょう。

女は、「ドラクメ銀貨十枚」を不時の出費に備えて蓄えていたのでしょう。

この女性が貧しい寡婦であれば、「ドラクメ銀貨十枚」は相当大きな金額であったと思います。

銀貨は紐に通していたでしょうが、何かの理由で紐が切れたのでしょうか。

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「見失った羊」のたとえ

聖書箇所は、ルカの福音書第15章3節から7節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第18章12節から14節です。

●Ⅰ節.徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

●2節.すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

●3節.そこで、イエスは次のたとえを話された。

徴税人と罪人はひとくくりにされています。

解説では、「徴税人」というのは、ローマ皇帝に納める税の徴収を請負っている「徴税請負人」の下で徴税の実務を担当する人たちで、当時のユダヤ教社会では、支配者であり異邦人であるローマ人の手先になって税金を自分たちから徴収している、嫌われ者というか汚れた者であり、同胞の苦しみを食い物にして私腹を肥やす者として忌み嫌われていました。

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2018年6月26日 (火)

客と招待する者への教訓

聖書箇所は、ルカの福音書14章7節から14節です。

共観福音書の並行個所はなくルカ単独の記事です。

●7節.イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。

14章1節からの「安息日に水腫の人をいやす」とこの個所は、ファリサイ派の議員が安息日に客を招待した食事の宴での出来事です。

この話は、神の国への招きについてのイエスの言葉です。

もちろん、神の国にすでに招かれているクリスチャンも真剣に聞かなければと思います。

まず神の国に招かれた者の態度が語られます。

招待を受けた客が上席を選ぶ様子をごらんになって語られます。

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安息日に水腫の人をいやす

聖書箇所は、ルカの福音書14章1節から6節です。

共観福音書の並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

●1節.安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。

ここで問題になるのは、いやしがなされた場所が、ファリサイ派の議員の家であることと、その癒しが安息日に行われたことではないでしょうか。

おそらく、会堂での安息日の集まりが済んだ後で、その議員がイエスを食事に招いたのでしょう。

その時の出来事と推測すると、ファリサイ派の「議員」ですから、おそらく最高法院の議員のことで、この人は地域の有力者であり、ユダヤ教社会の上層階級の人で指導的立場の人物であったと思います。

この食事の席もかなりの規模であり、多くの客が招待されていたのでしょう。

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2018年6月25日 (月)

「婚宴」のたとえ

聖書箇所は、ルカの福音書14章15節から24節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書22章1節から10節です。

このたとえは、マタイとルカの福音書にありますが、マルコの福音書にはありません。

マタイとルカ、両福音書の内容は大きく違いますが、基本的には本来の形を残しているのはルカの福音書ではないかと言われています。

ルカの福音書はマタイの福音書と違って、主人公は僕を一人しかもっていない「ある人」一個人ですが、マタイの福音書では多くの家来を持ち、軍隊を派遣することもできる王になっています。

したがって、ルカの福音書の宴会は一個人の宴会となり、マタイの福音書は王が王子のために催す婚礼の宴会になっています。

そのほかにも違いがあるのですが、後でその違いを読んでみたいと思います。

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2018年6月24日 (日)

弟子の条件

聖書箇所は、ルカの福音書第14章25~27節/同17章33節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第10章37~39節です。

●25節.大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

●26節.「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

●27節.自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」

●17章 33節.自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。
イエスはこの個所で弟子の条件を語られます。

イエスの神の国運動は、当時のユダヤ教の教えとは敵対する教え、イスラエルは神権国家ですからいわば国家勢力に敵対する教えでした。

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2018年6月21日 (木)

安息日に腰の曲がった婦人をいやす

聖書箇所は、ルカの福音書13章10節から17節です。

共観福音書に並行個所はなくルカ単独の記事です。

●10節.安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。

イエスの新しい教えは、最初はユダヤ教内での活動であったということです。したがって、イエスもユダヤ教会堂にてイスラエルの民に対し教えておられました。

この節は、安息日にユダヤ教会堂で教えておられます。

ガリラヤでの活動期間中での出来事ではないでしょうか。

●11節. そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。

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「実のならないいちじくの木」のたとえ

聖書箇所は、ルカの福音書13章6節から9節です。

共観福音書に並行個所はなくルカ単独の記事です。

●6節.そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。

●7節.そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか』」。

いちじくの木をイスラエルの象徴としてとらえているのでしょう。

マルコの福音書11章12節から14節でイエスは、最後にエルサレムに入られたときに実のない「いちじくの木を呪う」という象徴的な奇跡を行われた話がありますが、この記事はルカにはありません。

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2018年6月18日 (月)

悔い改めなければ滅びる

聖書箇所は、ルカの福音書13章1節から5節です。

この記事は共観福音書に並行箇所はなく、ルカ単独の記事です。

12章1節から始まった、終わりの日の裁きが迫っていることを主題とする忠告が、ここと次の「実のならないいちじくの木」のたとえで締めくくりとなります。

どちらも悔い改めを求めています。

●1節.ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。

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訴える人と仲直りする

聖書箇所は、ルカの福音書12章57節から59節です。

共観福音書の並行個所はマタイの福音書5章25節から26節です。

●57節.「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。

●58節.あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。

●59節.言っておく が、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない」。

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2018年6月15日 (金)

「忠実な僕と悪い僕」のたとえ

聖書箇所は、ルカの福音書12章41節から48節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書24章45節から51節です。

このたとえ話は、ルカの福音書12章の「目を覚ましている僕」のたとえ話の後半部分です。

●41節. そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、

●42節.主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人はいったいだれだろうか」。

このペトロの質問は、この章の前半の「目を覚ましている僕」のたとえ話が、誰に語られたのかをイエスに問うているのでしょう。

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目を覚ましている僕

聖書箇所は、ルカの福音書12章35節から48節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書24章45節から51節です。

●35節.「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」。

この個所は、何時訪れるかわからない終わりの日の裁きのとき、つまりキリストが再び来られるときに備えることの必要性を語られているのでしょう。

「腰に帯を締め」というのは、その日が突然来ても慌てることがないようにいつも準備して置きなさい。つまり、心構えのことを言っておられるのでしょう。

「ともし火をともしている」というのは、何時キリストが再び来られてもよいように、わたしが教えたことをしっかり守って、その日に備えていなさい、ということでしょう。

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2018年6月13日 (水)

「愚かな金持ち」のたとえ

聖書箇所は、ルカの福音書第12章13節から21節です。

この記事はルカ単独の記事です。

●13節.群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。

ユダヤ教のラビ(律法の専門家)はユダヤ教社会での法律家(律法はある意味法律です。)でもありますから、遺産相続の紛争などでラビに相談することは普通であったのでしょう。

モーセ律法には遺産相続に関して規定があります(民数記11章8節から11節、36章7節から9節、申命記21章15節から17節などです)。

群衆の一人がイエスに相談したということは、イエスをラビと見ていたのでしょう。

イエスは、おそらくラビとして正式な教育も受けていないと思いますが、群集の中ではラビとして通っていたということでしょうか。

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2018年6月10日 (日)

恐るべき者

聖書箇所は、ルカの福音書12章4節から7節です。

共観福音書の並行個所はマタイの福音書第10章28節から31節です。

●4節.「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」。

イエスは弟子たちのことを、親しみをこめて友人と言っておられます。

「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者ども」とは、強い者、とくに権力をもつ人間を指しているのでしょう。

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偽善に気をつけさせる

聖書箇所は、ルカの福音書12章1節から3節です。

共観福音書に並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

この節から13章9節までは、終わりの日の裁きが迫っていることを忠告する言葉が続いています。

●1節.とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」。

人々が驚くような新しい教えを述べ、病人をいやし悪霊を追い出す働きをされるイエスの評判はすごい反響を呼んでいます。

多くの群衆がイエスの周りに集まって来ます。

そのような群衆がいるところでも、イエスはまず弟子たちに語りかけ、イエスに従う者としての忠告というか心構えを説かれます。

「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」というイエスの言葉は、マルコにもマタイにもありますが、用いられ方が違うように思います。

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真の幸い

聖書箇所は、ルカの福音書第11章27~28節です。

共観福音書には並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

●27節.イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」

大衆は、イエスが神の国を語り、神の力で病人を癒されるのを見て、また、その教えにおいても、律法のように人の行いを律するのではなく、人を解放する全く新しい教えに驚くと共に、そのイエスを生んだ母マリアを称賛しました。

胎と乳房は子を宿し、産み、育てる女性だけがもつ身体の器官です。

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2018年6月 5日 (火)

マルタとマリア

聖書箇所は、ルカの福音書10章38節から42節です。

この記事はルカ単独の記事です。

●38節. 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

マルタとその姉妹マリアはベタニア村の出身です(ヨハネの福音書11章1節)。
ベタニアはエルサレムから十五スタディオン(三キロ弱)のところにある村です(ヨハネの福音書11章18節)から、歩けばエルサレムから半時間程度です。

イエス一行はもうエルサレムの目の前に来ていたのです。

なお、ルカの福音書ではイエスのエルサレムへの旅は始まったばかりと思いますが、これはちょっと早すぎはしないかと思うので調べてみると、ルカの記事は、物語としてみる必要があるので、物語の配置とか地理的・時間的なことは無視される傾向があるということです。

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七十二人、帰ってくる

聖書箇所は、ルカの福音書10章17節から20節です。

この記事は共観福音書に並行箇所はなく、ルカ単独です。

●17節. 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」。

ここでは派遣された七十二人の弟子の伝道活動(ルカの福音書10章1節から12節)の報告がなされています。
伝道活動においては多くの奇跡が伴ったことを報告しています。

「主よ、お名前を使うと、」ですから、彼らはイエスの名によって病人に手を置いていやし、悪霊を追い出すと、悪霊さえも屈服したと言っています。

●18節.イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。

●19節.蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。

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2018年6月 3日 (日)

七十二人を派遣する

聖書箇所は、ルカの福音書10章1節から12節です。

この記事はルカ単独の記事です。

●1節.その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。

「主はほかに七十二人を任命し」とありますから、この記事は、派遣された十二人が帰ってきて(ルカ9章10節)、エルサレムに向かうに際し、十二人のほかに七十二人を選ばれて、これから行こうとされる町や村に二人一組で、先に派遣されたのでしょう。

●2節.そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。

このイエスの言葉はマタイの福音書9章37節の群衆に同情されたのでしょうか。

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サマリア人から歓迎されない

聖書箇所は、ルカの福音書第9章51節から56節です。

この箇所は、ルカの福音書単独の記事です。

いよいよイエスは最後の旅エルサレムに向かわれます。

ルカの福音書では、9章51節から19章28節まではエルサレムに入られるまでの旅の記録ですが、内容はルカによるイエスの教えや語られた言葉が大部分です。

●51節.イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。

イエスは「エルサレムに向かう決意」と書いてありますから、エルサレムではご自分が十字架で殺されることを自覚しておられて、あえて行かれたということでしょう。

そして、エルサレムへは、おそらくユダヤ教徒として過越祭の日を目指して行かれたのでしょう。

イエスのエルサレム行きは、共観福音書は十字架前の一回のみ、ヨヘネの福音書は三回行かれたことになっています。

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2018年6月 1日 (金)

婦人たち、奉仕する

聖書箇所は、ルカの福音書第8章1~3節です。

共観福音書には並行個所はなく、ルカ単独の記事です。

●1節.すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。

●2節.悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、

●3節.ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

まず、当時の女性達が生きている社会の背景について調べてみました。

当時の様子を簡単にまとめてみると、イエスの頃のガリラヤの状態は、基本的には家父長制に基づく男性優位社会であったと言うことです。

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罪深い女を赦す

聖書箇所は、ルカの福音書第7章36節から50節(36節から43節まで登載省略)です。

●44節.そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。

●45節.あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。

●46節.あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。

●47節.だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

●48節.そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。

●49節.同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、一体何者だろう。」と考え始めた。

●50節 . イエスは女に、「あなたの信仰はあなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

この話が語られた場所は、ファリサイ人(ユダヤ教の中の一宗派ファリサイ派に属する人)であるシモンの家です。

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やもめの息子を生き返らせる

聖書箇所は、ルカの福音書第7章11から17節です。

共観福音書の並行個所はありません。

●11節.それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。

●12節.イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。

●13節.主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。

●14節.そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。

●15節.すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。

●16節.人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。

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