ゲッセマネで祈る(2)(マルコ14章)
ゲッセマネで祈る(1)の後半です。
聖書箇所は、マルコの福音書14章37節から42節です。
●37節.それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
イエスが苦悶の中で祈っておられるのに三人の弟子たちは眠っていたのです。イエスは祈り終え眠っている三人の弟子を見て、ペトロに声をかけられます。
ここではペトロではなく「シモン」と呼びかけておられますから、このイエスの言葉が後の教団の作文ではなくイエスの生の声であることが窺われます。
なぜならば、シモンはペトロの本名で、ペトロは通称ですから、イエスはここであらたまってペトロを本名で呼ばれたのです。
イエスの真剣さが窺われます。
イエスのこの呼びかけは叱責ではなく、人間の弱さに対するイエスの思いやりが窺われます。
眠ってしまっていた弟子たちにイエスは言われます。
●38節.誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
「誘惑に陥らぬよう、」と言うのは、弟子たちはイエスと共におられる御霊の働きによりイエスへの思いに燃えていますが、肉体(生まれながらの人間性のことも重ねていると思います。パウロはこのことを肉と言っています。)は弱いもので、眠気の誘惑には勝てません。
「目を覚まして」と言うのは、肉の弱さに勝つには「霊」の目をしっかりと覚ましておくことが必要だと言うことでしょう。
霊の目をしっかりと覚ましておくには、神に助けを求めて神に祈ることが必要です。
祈りを忘れると、イエスは、肉の誘惑に負けてしまうと警告されているのです。自分の信念に自信があっても、人間は弱いもので、肉体の弱さからくる眠気とかサタンの誘惑には勝てません。
肉の誘惑に負けて不信仰に陥ってしまわないためには、祈りの中でしっかりと神に結びついている必要があるとイエスは言われているのでしょう。
なお、この肉と言うのは、生まれながらの人間性(神から離反している状態)そのものを指していると思います。
「心は燃えても肉体は弱い」ですが、この「心は燃えても」の心は「霊」のこと(人間に宿る霊は人間固有の持ちものではなく、神の言葉と霊によって授かるということです。)で、「肉体」とは、心身全体を含む、生れながらの人間性そのものを指し、通常「肉」と訳されています。
ただし、この時はまだ聖霊はあまねくこの世に降っていませんから、ここで言っている「霊」は、イエスに降られた聖霊の働きを受けて弟子たちの心が燃えているということでしょう。
生まれながらの人間性で生きる者、つまり、肉に生きる者は神に属しません。神の言葉と霊によって生きる人間は神に属しますが、肉に生きる者は、霊を持ちませんから神との関わりにおいては無力で、肉は霊に敵対します。
イエスもこの地上では現実の人間として、肉の形で生きられましたが、神の言葉において(御霊においても)神と一体でしたから、肉によって生きるのではなく、霊において神との交わりの中で生きられました。
したがって、イエスは霊と肉のはざまで生きられて、肉である生まれながらの人間性がいかに神と共に生きることを妨げようとするかを体験されました。
それが、荒野の誘惑(マルコの福音書1章12節から13節、マタイの福音書4章1節から11節、ルカの福音書4章1から13節を参照)の出来事だということでしょう。
●39節.更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
●40節.再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
イエスは弟子たちに「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」と言う言葉を残して再び「向こうへ行って」祈りに入られます。
二度目の祈りから戻ってこられると、弟子たちは先ほどの忠告にもかかわらずまた眠っていました。
弟子たちは、眠ってはいけないと強く心に誓ってはいたでしょうが、おそらく寝不足と不安と悲しみと緊張で疲れて、睡魔が襲い、抗しきれないで眠りに陥ってしまったのでしょう。
「イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。」というのは、弟子たちには理解不能な事態が起こっていて、その上寝起きの弟子たちですから、頭はぼんやりとしていたので、イエスが目の前に現れても一瞬事態がのみこめなかったので、どのように問いかけてよいのか、分からなかったということでしょう。
●41節.イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
なんと、イエスはこの祈りを三度繰り返されたのです。
「三度」というのは願いの切実さを象徴す数と言うことです。
「もうこれでいい」とは、イエスが祈りの中で父の御心(イエスの十字架死は人類救済の神のご計画であるということ)を受け止めて、心が定まったということでしょうか。
イエスが神のみ心を全面的に受け入れれば、ついに定めの時を迎え入れる準備が終わったことになります。
「時がきた」の時は、神が定められた人類救済の業を成し遂げられる時を言い、イエスがそのためにこの世に来られたのです。
イエスがかねて「人の子は人々に引き渡される」(マルコの福音書9章31節)と繰り返し予告しておられましたが、今そのことが現実になるのです。
●42節.立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
日が暮れて闇の中を、イエス逮捕のためにイエスを裏切ったユダと共に役人がやってきます。
「立て、行こう。」とイエスは覚悟を決めて立ち上がります。
そして、一緒に行こうと弟子たちに呼びかけます。
イエスの覚悟と強い決意がうかがわれます。
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