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2018年5月25日 (金)

弟子たちを派遣する(2)(マルコ16章)

聖書箇所は、マルコの福音書第16章17節です。

「弟子たちを派遣する(1)」に続き(2)です。

なお、最後に並行個所であるマタイの福音書第28章16節から20節を取り上げてみたいと思います。

●17節.信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
この節では「信じる者には、つぎのようなしるしが伴う」といわれます。

そのしるしが列挙されていますが、それは「新しい言葉を語る」と18節の「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず」、という二つのしるしのことを言っているのでしょう。

「新しい言葉を語る」というのは、使徒言行録2章に出てくる「異言」を指しているのでしょう。

具体的には、祈りとか讃美において、御霊の働きによって言語能力が直接コントロールされて、知らない言語で語り出すことを指しています。

わたしはペンテコステの教会で洗礼を受けましたから、異言は、身近な出来事の一つです。

経験のない方は理解できないと思いますが、現在でも一部のキリスト教会では頻繁に起こっている霊的現象です。

●18節.手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

「手で蛇(毒蛇)をつかんでも害を受けない」という出来事は、使徒言行録28章にパウロの身に起こった「しるし」として伝えられています。

このような「しるし」がわざわざ列挙されているのは、この福音書のこの語句が書かれた時代には、実際にこれに似た奇跡的な出来事があり、それが福音宣教に伴う「しるし」として受け取られていたのではないかと思います。
事実このようなしるしは、使徒言行録の中に見ることができます。

そして、使徒たちだけではなく、今日においても、現実に福音を受け継いだ多くの宣教師が、これらのしるしを体験していると聞きます。

これらのしるしは、必要なときに必要なしるしが与えられるので、決して神を試すためにあるいは興味本位でしるしを求めてはいけないし、願えば必ず得られるものでもないと思います。

必要な時というのは、宣教活動の中で、悪霊にとりつかれている人々に遭遇したり、蛇にかまれたり、害虫がうじゃうじゃいる水をどうしても飲まなければいけない時とか、病気にかかっても、医者に診てもらうことができないこともあると思いますが、イエスは、そのような人々の必要を満たされることによって、宣教活動を助け、信仰へと導かれると思うのです。

最後にガリラヤでの顕現が詳しく書かれていますのでマタイの福音書の並行箇所にちょっと触れておきたいと思います。

この個所は、マタイはマルコの福音書の終わり方が不服であったから書き足したのかも知れません。

<マタイの福音書第28章>

●16節.「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」

墓を見に行った婦人たちに天使は、復活されたイエスが、生前に弟子たちに予告された通りガリラヤに行くように指示されますが、この指示された「イエスが指示しておかれた山」がどの山かはわかりません。

多分、生前の顕現予告(マタイ26・32)のときに指示があったと思われます。

●17節.そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。

弟子たちは予告されたガリラヤの山に登り復活した「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」のです。

「ひれ伏した」という動詞は、「ひざまずいて礼拝する」という意味の動詞だということです。

この動詞は、ユダヤ教では本来人間に向かって用いられる動詞ではなく、神に向かって用いられる動詞ということですから、ここは、明白に復活されたイエスに対して礼拝が捧げられたことを表しているのでしょう。

「しかし、疑う者もいた」の疑う言うのは、やはり復活のイエスを疑うという意味でしょう。

イエス復活の知らせを聞いた後も、弟子たちが困惑し動揺していたという他の福音書の伝承を考慮するとそういうことだと思います。

●18節.イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。

●19節.だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

●20節.あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

マタイは近寄ってきた復活のイエスから、この言葉を聞いたのです。

これがマタイの福音書が言おうとしていることの結論でしょう。

マタイがこの福音書で告げ知らせるイエスは、復活によって「天と地の一切の権能を授かっている」方であると宣言しています。

イエスが復活されたという告知は、復活は神がなされたことですから、「天と地の一切の権能を授かっている」方は、イエスだということになります。

イエスは復活によって、霊的諸存在がいる天界においても、地上の人間世界においても、一切を支配する権能をもつ方となられたということでしょう。

イエスがそのような方になられたのだから、世界のすべての民はこの方の支配に服し、その方に従うようにならなければならないのです。

復活されたイエスが弟子たちに与えられる命令は、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」(19節)です。

その命令の内容は、「わたしがあなたたちに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(20節)という言葉で説明されています。

わたしがあなたたちに命じておいたこととは、「山上の説教」に代表されるすべてのイエスの教えを守ることだと思います。

イエスの教えを守ることがイエスの弟子になることですから、すべての民を弟子にしなさい、と同じです。

マルコの福音書は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16・15)ですが、マタイの福音書は「すべての民をわたしの弟子にしなさい」(19節)です。

同じことを言っているのだと思うのですが、いかがでしょう。

「すべての民」ですから、マタイは異邦人(イスラエル人以外)に向かって宣教することを、復活されたイエスの命令として受けとめています。

イエスはもはやイスラエルの民だけでなく、全世界の主となられたのですから、すべての国民を教え導く方にならなければならない。

「行って」、というのはおそらくユダヤ教の世界から広く異教世界に出て行くことを言っているのでしょう。

次に19節の「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」ですが、この洗礼はあくまで、イエスの弟子として「イエスが命じられたことをすべて守る」ことを誓約する儀礼といいますか、象徴ということでしょう。

そして、この世界宣教の命令と委任は、最後に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束の言葉で根拠づけられて終わります。

なぜ根拠付かといいますと、「世の終わり」に至るすべての日々に、復活者したイエスが御霊となって、弟子たち(福音を受け継いだ代々の弟子たち全て)と一緒にいてくださっている現実が、キリストの民が歴史の中にあって寄って立つ根拠となっていると思うからです。

そして、このことがキリスト者の集まりであるエクレシア(教会)の存立の土台となるのです。

まさに、「インマヌエル」(神は我々と共におられる。マタイの福音書1章23節.)という名で呼ばれたイエス・キリストそのものです。

御霊、つまり聖霊の存在と働きを認めなければキリスト教は成り立ちません。

それは、キリスト教がもつ神秘と言えます。

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