人を裁くな(ルカ6章)
聖書箇所は、ルカの福音書第6章37~42節です。
共観福音書の並行箇所は、マタイの福音書第7章1~5節です。
ルカの福音書の沿って読んでみたいと思います。
イエスはこの世に神の支配が始まったことを告げにこられました。
それは、神の絶対無条件による平等、恩恵の支配だと告知されています。
そして、その神の恩恵が支配する場に生きるわたしたちに、父なる神と同じようにその恩恵の場で隣人に関わるように、つまり、マタイの福音書6章36節で「慈愛深い者」であるように、37節でその内容を、「裁くな」「人を罪人だと決めるな。赦しなさい」、38節では、37節を積極的に、「与えなさい」といわれました。
裁くなというのは、人を罪人と決めるなということでしょう。
裁くというと刑法という法律で裁くのを思い起こしますが、刑法という法律は社会秩序を維持するために行いの罪を裁くのですが、イエスが言われた「裁くな」というのは、そうではなく、わたしたちが人生において関わりを持つ隣人に対して道徳的あるいは宗教的な価値観において人を裁き罪びとと定めるなということだと思います。
●37節.「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
「罪人と定める」というのは、「義と定める」(正しい判決、法に背いていないこと)の反対の動詞です。
これはユダヤ教社会での律法違反(モーセ律法)による神の前での有罪を指しているのだと思います。
人を裁く(刑法で裁くのではない)には何かの裁くべき基準が必要ですが、ユダヤ教社会ではそれがモーセ律法であり、わたしたちの社会では道徳とか文化であると言えます。
もちろんやってはいけない最後の砦としての刑法もありますが、イエスは思いの罪も罪だとしています。
わたしたちは自己中心的な存在ですから、どのような場合も無意識に自分を裁く者の立場において自分を基準にして他者を裁いているのではないでしょうか。
自分にとって好都合かどうかで事の善しあしを判断するということです。
神の恩恵の場に生きる者は、自分が無価値であること、ただ神の恩恵によって生かされていることを自覚しているので、自分を裁く立場、価値ある者の立場において他者を判断することはできないのです。
並行個所であるマタイの福音書第7章1節「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」が言っているのは、もし自分を裁く者の立場において他者に対して自己中心的な裁きをするならば、そのことによって、自分を神の規準で神に裁かれることになるという忠告だと思います。
イエスはこのことを具体的なたとえ話で語られています。
それは、マタイの福音書第18章23節から35節の「仲間を赦さない家来」のたとえです。
返しきれない借金を負っている家臣を憐れんで、貸主である王は借金を帳消しにしてやりますが、その家臣は、自分が僅かの金を貸している同僚に厳しく返済を求めて訴え、借金を返すまで牢に入れました。
それを知った王はその家臣に、「わたしがお前を憐れんでやったように、自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言って、その家臣を牢に入れました。
この王というのは神で、家臣はわたしたちのことだと思います。
このたとえ話が言わんとすることは、神の支配する恩恵の場に生きる者は、自分が神に受けた恩恵を仲間にも同じ恩恵で応えて、裁くことなく、赦すべきだと言っているのだと思います。
ルカの福音書第6章38節の「与えなさい」の理由としてつけられている「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」という秤のたとえは、この同37節の「裁くな、断罪するな、赦しなさい」の理由でもあると思います。
逆にいえば、自分が赦されるため、裁かれないためには、隣人を赦す必要があるということでしょう。
ところがわたしたちにとって、人を赦すことは本性的に難しいことです。
とくに自分にとって都合の悪い隣人は排除したいし、自分を傷つけたものに同等の報復をしたいものです。
でも、神は赦せと言われます。赦すとは受け入れると言うことです。
それは、報復するとか、価値観の違う者、自分に害を与える者をどのような人間であろうと無条件に受け入れると言う意味でもあると思うのです。
これはとてもできそうにありません。
でもね、神を信じ、神の恩恵の場に生きるときは、御霊の働きによりそういう生き方ができると言われているのだと思います。
ルカの福音書第6章
●38節.与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
マタイの福音書第7章
●2節.あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
この聖句は、人を裁いたり赦したりするだけでなく、「与えなさい」ともっと積極的な行動を求めています。
ここのたとえ話は、穀物の売買のたとえ話ですが、わたしたちが人に無条件で与えるならば、与えた同じ秤であふれるほど与えられるというのです。
だから、気前良く与えれば神は同じ秤で気前良く与えてくださるのです。
それでは、神から与えられる善きものとは、はたして何でしょうか。
お金でも権力でも名誉でもありません。
与えなさい」というように、行いによる報酬ということになりますが、行いによる報酬は旧約聖書の時代で終わったはずです。
その報酬は、この世においてはイエスの言葉を信じるものに内住される聖霊(ルカの福音書弟11章13節)だと思います。
聖霊は、キリスト・イエスにあって生きる者に与えられる賜物です。
「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録第20章35節)というイエスの言葉は、この世の価値観と逆転の発想です。
イエスは与える者が受ける豊かな幸いを明確に語っておられます。
聖霊は、その人を新しい人間に造り変え、神と共に生きることができるようにして下さるのですから、これほどの祝福はありません。
そして、さらに終末(終わりの日)の裁きの時には、人を裁かなかった者は裁かれることなく、人を赦した者は赦され、人に無条件に与えてきた者は、神の豊かな栄光をあふれるまでに与えられるということだと思います。
ただし、そのようにしなかったからと言って地獄に送るとは書いていません。
ルカの福音書第6章
●39節.イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。
●40節.弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
●41節.あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
●42節.自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
ルカの福音書には、人を裁くことの愚かさについては、イエスの二つのたとえ話があります。それがこの個所です。
39節の「盲人の道案内をする盲人」は、真理が見えない人を導く立場にあるユダヤ教ファリサイ派の律法学者の間違った道案内の愚かさを語っています。
盲人が盲人の道案内をすれば穴に落ち込む結果になるということです。
41節から42節の「おが屑と丸太」は、他人の欠点はよく見えるが、自分の欠点には気づかないという程度のことではなく、自己存在の本質的な問題に気づかないで、他人の枝葉の問題ばかり見ている者の愚かさを語っています。
人は得てして自分の欠点には気が付きにくい者です。 この二つのたとえ話は、特別に難しく考える必要はないと思うのです。
誰でも読めば納得できます。
マタイの福音書の並行個所もほぼ同じ内容だと思います。
ただ、マタイは7章5節にこのような言葉を置いています。
「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」です。
偽善者、つまり、自分の欠点に気が付きながらそれを直そうとせず人の欠点を裁いている人に対して、人を裁く前にまず自分が悔い改めなさいと忠告しています。当たり前のことですね。
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