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2018年5月25日 (金)

弟子たちを派遣する(1)

聖書箇所は、マルコの福音書第16章14節から18節です。

共観福音書の並行個所はマタイの福音書第28章16節から20節です。

二回に分けて投稿します。(1)は16章16節までを読みます。

●14節.その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

十一人(イエスが直接選ばれた十二人の弟子からイエスを裏切ったユダを除いた十一人)の弟子は、マグダラのマリアが復活のイエスに出会った顕現報告、エマオの道中でイエスの顕現体験をした弟子二人(十一人以外の)の報告も信じなかったのです。

イエスはその弟子たち十一人の前に顕現されます。

そして、叱責されます。

イエスが蘇られたことを証言する証人が数名いたのに、彼らの言うことを受け入れなかったことを責めておられるのです。

もちろん、イエスも生前に復活の予告をされていましたので、そのことが前提にあるのでしょう。

生前にイエスから予告されていて、その予告が実現したという報告を受けたのに、弟子たちは信じなかったのです。

わたしたちを含めて、人間と言う者は、常識から外れたことはなかなか受け入れないものです。

もしわたしたちが、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じなければ、そのような頑なな心の中には、神はお住みにならないのでしょう。

だから、神が裁かれる唯一の罪は、イエス(のみ言葉)を信じないことではないでしょうか。

しかもこの場合、生前に予告を受けて、数名のよみがえりの証人がいたのにもかかわらず信じなかったのです。

●15節.それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

イエスから直接薫陶を受けた十一人の弟子が食事をしている場にイエスが現れて、全世界に福音を宣べ伝えるように命じられたことが語られています。

イエスは意味もなく顕現されません。

十一人の弟子たちは、顕現されたイエスから「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」という召命を受けたのです。

「福音を述べ伝えなさい」という命令ですが、その命令を受けた十一人の弟子たち、それを受け継いだ弟子たち、つまり、福音を信じる歴代の人たちが福音を述べ伝えるのですが、伝道によってすべての人が救われるとか、信じるように説得しなさいとは聖書のどこにも書いていません。

そうです、福音を述べ伝えるだけなのです。

信仰に、つまり救いに導かれるのは人間の言葉ではなく、神の御霊、聖霊の働きだということでしょう。

それでは過去・現在・未来において福音を知らずに亡くなった人々にはどのようにして述べ伝えるのでしょうか。

国とか文化、また生まれ育った環境により福音を聞く機会に恵まれなかった者、福音を行くまでに亡くなってしまった者はどうなるのでしょうか。

やはり、来世においても救われるチャンスがあると言えるのではないでしょうか。そうでないとあまりにも不公平極まりない。

人間が永遠の命を生きるというのならば、この世の人生は永遠の中のほんの一瞬だと言えます。

その一瞬の地上の人生で、いろいろ生まれた環境に違いがあり、福音に出会えるチャンスは平等ではないといえるのに、福音を受け入れなかったら永遠の人生すべての運命が決まるというのは、納得いきません。

神はすべての人間を公平に裁かれる方です。

また、七の七十倍、すなわちとことん赦される方です。

なお、「福音」の意味については、カテゴリー「キリスト教とは」で、14年3月の投稿した「キリスト教の福音」を参照にしてください。

パウロは「福音」を「救いをもたらす神の力、」と言い、その働きを受けるのには何の条件もいらないと言いました。

どの民族でも、どの宗教の教徒でも、男でも女でも、教養も知識も文化程度も問いません。

ただ、キリストにあればよいと言っています。

神の力は、人々に希望を与え、あらゆるよいものを与えます。

人は希望がなければ生きてはいけない存在です。

もし、この世に創造主たる神がおられなくて、適者生存の進化論の世界ならば、希望はどこにもありません。
使徒ペトロは、こう宣言しています。

「・・神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、・・」(ペトロの手紙一第1章3節)

弟子たち(使徒たち)は、ここでイエスの復活の証人となるのですが、福音とは結局「復活されたイエスを見た人々」の証言あるいは告知といえます。

この使徒の証言を信じることが「救いに至らせる神の力」を授かることになるということだと思います。

●16節.信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

「信じて洗礼を受ける者は救われる」、と表現されていますが、救いは洗礼という行ないではなく、信仰だと思います。洗礼はあくまでも儀式です。

イエスはこう言われた。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(ヨハネの福音書第3章17節・18節)。

なお、ここには洗礼のことが書かれていますが、洗礼は、自分がキリストのものになることを公にする儀式で、洗礼の水は墓を意味しているということです。

水の中に入ることによって、生まれながらの自然の命は葬られる。

つまり、キリストが罪を背負って、墓に葬られたように、罪に支配されているわたしたちも死んで葬られ、水から出ることによって、わたしたちの罪は拭われて新たに生まれ、新しい命に生きることができることを象徴していると言うことです。

洗礼は、イエスを信じる者たちに対する命令であっても、救いの条件ではないのです。

そして、信じない者は、自ら救いへの道を閉ざすという意味で、「滅びの宣告を受ける」と言われたのでしょう。

だから、信じるようにと呼びかけられたのでしょう。
「弟子たちを派遣する(2)」に続きます。

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