イエスの死(1)(マルコ15章)
いよいよ十字架刑もクライマックスに入ります。
イエスの死を全地が嘆きます。
聖書箇所は、マルコの福音書15章33節から41節ですが、二回に分けまして、(1)は、マルコの福音書15章33節から37節です。
ここでは、イエスが息を引き取られるまでを読みます。
共観福音書の並行箇所は、マタイの福音書27章45節から56節、ルカの福音書23章44節から49節です。
マルコの福音書15章
●33節.昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
マルコの福音書は、イエスが死なれた決定的な1日12時間を、3時間ごとの四つに区分して書いています。
すなわち、夜明け(午前6時)から午前9時までの間に、イエスは最高法院で判決を受け、ピラトの法廷で裁かれ、鞭打ちと侮辱を受け、刑場へ引かれて行きます。
午前9時にイエスは十字架につけられて、激しい苦痛の中で通行人や祭司長たちの侮辱にさらされます。
正午から3時間にわたって全地が暗くなり、午後3時にイエスが絶命されます。それから日没(午後6時)までの3時間の間に、イエスの遺体は十字架から取り下ろされて墓に葬られます。
イエスが絶命されるとき3時間にわたって全地を覆ったこの闇はどのような意味があるのでしょうか。
そのことをもって、マルコは何を語ろうとしているのでしょうか。
この暗闇の意味を旧約聖書から見ますと、というのは、福音書はイエスの死に関わる出来事をすべて旧約聖書の預言の成就として語っているからです。
それに、旧約聖書の預言者たちは繰り返し裁きの日の暗闇について語っているのです。
「その日が来ると主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」。
旧約聖書イザヤ書第13章10節ほか何箇所も、同じように裁きの日の闇について語っています。
だから、正午に全地が暗くなったのも皆既日食ではありません。
なぜなら、過越の祭りの季節(1月)に、太陽から見て、地球が月の裏側に来ることはないということですから、全地が暗くなったのは、天地を創造された神ご自身が、意図的に起こされた現象といえます。
その意味するところは、神のひとり子が失われるのを自然界全体が悲しんでいるというということでしょう。
これらの現象を、作り話で、旧約聖書の預言をそのまま描いたのではと言われる方もおられるでしょうが、確かに預言を用いて誇張して描いているかも知れませんが、事実それらしい現象があったのだと思います。
これほど大掛かりな自然現象ですから、多くの人が目撃していたでしょう。
このマルコの福音書が書かれた時代にもそれを目撃した人が生きていたでしょう。
嘘であれば福音書に書かれて流布した段階で批判を受けて、おそらく削除、いや、福音書自体も消えてしまっていたかもしれません。
なにしろまわりはユダヤ教フワリサイ派の天下で、キリスト者をユダヤ教社会から排除しょうとしていましたからね。
排除しょうとする、迫害する勢力にとって作り話は絶好の攻撃材料です。
●34節.3時にイエスは大声で叫ばれた、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
この聖句はアラム語で書かれていて、マルコはギリシャ語に訳して、その意味を説明しているということです。
男の弟子たちは逃げてその場にいなかったのですが、居合わせてその言葉を直接聞いた者たち(おそらく男より追及が緩かったので逃げないでイエスに没薬をまぜたぶどう酒を与えようとした女性たちだと思います。)から伝えられたイエスの最後の言葉だと思います。
いや、もしかすれば女性でなくヨハネかもしれません。ヨハネは当時まだ子供で当局の追及の網から逃れることが出来たでしょう。
この言葉を原始キリスト教会はもっとも重要なイエスの言葉として、大切な言葉だから原語のまま、つまりアラム語のまま残したのでしょう。
だから、この言葉もイエスの真実の言葉だと思います。
「なぜわたしをお見捨てになったのですか」というイエスのこの言葉は、イエスが神の子ならこのような言葉を発しないのではという意見があります。
それで、この言葉はキリスト教批判者を喜ばし、教団には信仰のつまずきとなるような聖句と言えますが、逆に考えると、このような自分らに都合の悪い聖句を教団が創作して福音書に残したとは考えられないということです。
だから、わたしはこの様なことを言われたのは事実と見るべきだと思います。ではどのように考えるべきでしょうか。
この聖句は詩編22編の冒頭の言葉と同じです。
この詩編は、人からも神からも見捨てられた悲痛な叫びで始まっていますが、神への信頼と賛美で終わります。
それで、イエスは最初の一句を叫ぶことでこの詩編全体を祈られたという説が有力です。
なぜならば、ユダヤでは作品全体を最初の一行で代表させる習慣があったからです。
ところがそうだとすると、イエスのゲッセマネの丘(オリーブ畑)での祈りと、十字架への決断の意味はどうなるのでしょうか。
ゲッセマネの丘では、血の汗を流すほどの苦しみの後で「わたしが願うことでなく、御心に適うことが行われますように」(マルコの福音書第14章36節)と心を定め祈られました。
であればこの34節の祈りと矛盾するのです。
この「杯」を取りのけてくださいと祈られた「杯」とは、神の子として父なる神と一体の中におられたイエスが、人類の罪に対する神の裁きを、言い換えれば、十字架死による肉体の苦痛もさることながら、罪の中でもがき苦しむわたしたちの苦悩のすべてを一身に背負うことによる地獄の苦しみを指しているのでしょう。
ゲッセマネの丘ではすべてを父なる神にゆだねられると心を定められたのに、ここ34節では、イエスは、できることなら十字架から逃れたい、苦しみを取りのけてくださいと祈られたのです。
そのイエスの願いはかなわず、その「杯」をいま十字架の上で現にイエスは飲み干しておられるのです。
マルコの福音書第14章34節でイエスは「わたしは死ぬばかりに悲しい。・・」と言っておられます。
この悲しいは、イスラエルの人々の無理解、罪に沈む人類の哀れを表現しているイエスの悲痛な叫びだと思うのです。
御自分が殺されることを「悲しい」と表現したとは考えられません。
イエスは神を常に「アッバ、父よ」と呼んで、いつも子としての親しい交わりの中におられました。
そのイエスが生涯の最後において、神から見捨てられた思いで死なれる。
そしてこの時、イエスは父なる神を呼びかけるのに、はじめて「父よ」ではなく「わが神」と叫ばれました。
イエスがわが神といわれるのはこの箇所のみです。
「わが神」という呼び方は、人間として神に語り掛けている呼び方です。ですから、神の子でありながら人の立場に立たれたということです。このイエスの思いは、苦しみは、旧約聖書イザヤ書第53章4節の予言がイエスの上に実現した苦しみでしょう。
「彼が担ったのはわたしたちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。」
この時のイエスは、神の子でありながら神に見捨てられた神の子として、つまり、神の子でありながら人性のみの状態であったと思います。
わたしは神がそのようにされたのだと思うのです。
それは神がそう望み、人間としての最大の苦しみを科すためであったといえます。
なんとなくゲッセマネの丘での最後の言葉と、この34節の言葉が矛盾している意味がなんとなく見えてきました。
イエスの死が人類の罪の贖いのための死であるというためには人間としてそこまで追いつめられる必要があったのだと思います。
イエスは神の子でありながら人々を愛するゆえに一時的に人間として、人間が負わねばならないその苦しみを背負い死なれたのです。
この苦しみというのは、人間の罪科とそこから生まれるあらゆる苦しみすべてを指しているのでしょう。
あまりの苦しみのゆえにイエスは神に見捨てられたと思った。
イエスの「なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、父なる神を信頼していたからこそこの苦難に直面して反対の言葉が出たと言うことではないでしょうか。わたしたちにもよくあることです。
父なる神は限りなく愛しておられる御子を見捨て、死に引き渡すことによって、御父も苦しんでおられるのです。
御子の苦しみを苦しみ、御子と共に苦しみを受けておられるのです。
イエスは、この瞬間に全人類の罪と苦しみの一切を負われました。
そして、わたしたちに代わりわたしたちの罪を贖われました。
なお、贖いというのは、イエスの命という代価を払ってわたしたちの罪が赦されたということだということです。
●35節.そばに居合わせた人々の内には、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」という者がいた。
イエスの「エロイ、エロイ」の叫び声を、十字架のそばに立っていた者が、エリヤを呼んでいる声と聞き違えたのでしょう。
なお、マタイの福音書第27章46節は同じ箇所では「エリ、エリ」という書き方になっています。
「エリ、エリ」という言葉はヘブライ語ということです。
その声がエリヤを呼ぶ声に聞こえたのでしょう。
当時のユダヤ人の間では、義人の苦難にさいしてエリヤが天から助けに来てくれるという信仰があったそうです。
エリヤは霊に満たされたイスラエル最大の預言者で、死を味わうことなく、地から直接天に移されたと伝えられています(列王記下2章)。
天にとどめられているエリヤは、この時代メシアの時代の到来に先駆けて地上に再来するという信仰が広まっていたのですが、イエスの「エロイ、エロイ」という叫び声を「エリヤを呼んでいる」と聞き間違えするのですから、イスラエルでは、個々の義人の苦難にさいしてもエリヤが天から来て助けを与えると信じられていたということです。
●36節.ある者が走りより、海綿に酸いぶどう酒をふくませて葦の棒につけ、
「酸いぶどう酒」は、ローマ兵が元気を回復するために用いた、水と酢と卵を混ぜ合わせた飲物だそうです。
刑吏役のローマ兵が、自分が携えていたこの飲物を飲ませようとしたのだと思います。
その飲物を飲ませて、もうすこしこの「ユダヤ人の王」を生かしておき、エリヤとやらが助けに来るかどうかを見ようとしたのではないでしょうか。
これは真剣に奇跡を期待しているのではなく、惨めな死を迎える「ユダヤ人の王」に対する揶揄の行動です。
この出来事は、旧約聖書詩編第69編22の預言「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」が成就したと聖書記者は見ています。
●37節.しかし、イエスは大声を発し、息を引き取られた。
イエスの最後の瞬間を、マルコはこのように簡潔に伝えています。
イエスが発せられた大声の内容は、ルカの福音書(23章46節)は、イエスは大声で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られたとしています。
イエスの最後を語るのに、このマルコの福音書は「息をひきとる」という動詞を使っていますが、解説では、この動詞は、「息」という意味だけではなく「霊」という意味もあるということです。
他の福音書では、「完了した。」と書いています。
この意味は、神による人類を罪から救うためのみ業は完了した。
イエスが十字架の上で息絶えられたとき、イエスが父から委ねられたと受けとめておられた使命が完成したということだと思います。
イエスの側でなすべきことはすべて「成し遂げられた」ということでしょう。(ヨハネの福音書第19章30節参照)。
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