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2018年5月 1日 (火)

ペトロの離反を予告する

聖書箇所は、マルコの福音書14章27節から31節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書26章31節から35節/ルカの福音書22章31節から34節・36節から38節です。

●27節.イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。

イエスは弟子たちに「あなたがたは皆つまずく」と言われました。

「つまずく」というのは、わたしたちは道を歩いていて石につまずくとよく言いますが、この場合は、イエスが十字架で処刑され死亡する事態に遭遇し、イエスへの期待が失われて失望することだと思います。

『わたしは羊飼いを打つ。すると羊は散ってしまう』とありますが、この言葉はどういうことでしょうか。

難しいですね。「羊飼い」はイエスのこと、「羊」は弟子たちのことでしょう。それでは、「わたしは羊飼いを打つ」とはどういうことでしょうか。

調べてみると、『』の中のイエスの言葉は、預言者の言葉である旧約聖書ゼカリア書13章7節「羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。

わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。」をイエスがご自分に使うために少し言い換えて使われたのではと言うことです。

そうであれば、「わたしは」というのは父なる神のこととなりますから「わたしは羊飼いを打つ」というのは、神がイエスを十字架で殺させると言うことになります。

したがって、イエスの十字架死は神のご計画であると言うことです。

『・・すると、羊は散ってしまう』のですから、これは、弟子たちがイエスを失った失望と、巻き添えを食って逮捕されるのを恐れ、イエスへの信仰を失い、イエスを見捨て去ってしまうことを言っているのだと思います。

やがて、弟子たちは現実にこれらのことを体験することになり、イエスが逮捕されると、予告通り故郷ガリラヤに逃げ帰ってしまいます。

ペトロなどは、三度もイエスのことを知らないと言って、イエスとの関係を否認します。

こうして初めて弟子たちは自分の弱さ、罪深さを心の底から自覚することになりますが、その挫折はイエスの復活後に本当の意味でイエスを自分の救い主として信じるためには必要なことであったと言えます。

なぜなら、人は生まれもって神とキリストに敵対する性質を持っているので、そのことを認めない限り、本当に自分にとって救いが必要であることを知ることができないのではないかと思うからです。

●28節.しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

イエスは十字架上で殺されても、三日後に復活されます。

そして、イエスにつまずいて故郷ガリラヤに逃げ帰る弟子たちより先にガリラヤに行くと言われています。

ここでイエスは、復活して弟子たちを再び集めて導くことを預言されています。

「先にガリラヤへ行く」の「先に」という動詞は、先頭に立って(群れを)導いて行くという意味だと言うことですから、復活されたイエスが先にガリラヤに行かれる目的は、殺されたイエスにつまずき、師を見捨てて逃亡した弟子を再びガリラヤに集め、勇気を奮い起させ、立ち上がらせ、導くためであると考えます。

●29節.するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。

ペトロの傲慢と言えるほどのすごい自身です。

ペトロは、「わたしは」と言っていますから、自分を強調して自分の力を信じているのです。そこには何の根拠もありません。

あえてその根拠を考えると、他の弟子たちと自分を比べて、「たとえ皆がつまずいても」ということでしょう。

神を信じると言うことは、このような自信が崩壊して、自己の能力や資格が無力になってしまう場、そうです、自己を無にしてすべてを神に委ねるという状態において初めて成立すると思うのです。

その様になれれば、この世を生きるのがどれほど楽になることでしょう。

●30節.イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

ここで「知らないという」というのは否認するという意味ですから、イエスとのかかわりを否定することになります。

ペトロは、「今日、今夜、鶏が二度鳴く前に」、「わたしだけはつまずきません」と言ったその舌の根の乾かぬうちにイエスとの関わりを否認するのです。

しかも三度もです。

人間とはこういうものだということは、イエスはよくご存じです。

人間は自己中心的で弱い者で、このような事態に耐えることはできません。

逆にいえば、このような事態を経験したからペトロは何物にも揺るがない信仰を持てたのだと思うのです。

もちろん、それは復活者イエスの、つまり、復活の御霊、聖霊の働きがあってのことですから、何物にも負けない強い信仰も、人間と神の共同作業の上に成り立つと言えないでしょうか。

人間は己の弱さを心底自覚して初めて、神はその者に働きかけることができ、その者は神を知ることができるのでしょう。

●31節.ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。

イエスの言葉に対して、ペトロは力をこめて繰り返して、「言い張りました」。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と・・・。

それに対してイエスはもはや何も言われません。

やがてすぐにペトロ自身が己の決意がいかに弱いものかを身をもって知るようになることをご存じだからです。

「皆の者も同じように言った」は、皆の者も」ですから、ペトロの言葉は他の弟子たちの代表として語っていると言えます。

これらの出来事のすべては、つまり、このペトロの体験は、神が定められたところであり、神の人類救済のご計画の中で起こるべきして起こった出来事と言えるのではないでしょうか。

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コメント

素晴らしい内容だと思います。おじさんとはどなたでしょうか?

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