裏切られ、逮捕される(マルコ14章)
聖書箇所は、マルコの福音書14章43節から50節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書26章47節から56節、ルカの福音書22章47節から53節です。
●43節.さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
「十二人の一人であるユダが」と強調して、そのユダが師であるイエスを裏切り、イエスを逮捕するよう役人を誘導したことを明確にしています。
ユダは「どうすれば折りよく」(マルコの福音書14章11節)祭司長たちにイエスを引きわせるのか機会をうかがっていました。
その機会がいま到来したのです。
イエスと弟子たちが人目に知れずに祈る場所であるゲッセマネの園を知っているユダは、剣や棒を持って武装した一群の人々をその場所に案内します。
それでは、「祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆」の群衆は誰を指すのでしょうか。
この群衆は、祭司長たちが遣わした群衆ですから、今までのようにイエスの教えや力ある業を慕って周囲に集まってくる貧しい人々でないのは明らかです。
この「群衆」は、祭司長たちに金で雇われて、手下となってイエスを捕らえてピラトに処刑を要求する人々のことを指しているのでしょう。
イエスが憐みをかけられた群集が、おそらくお金によって、イエスを捕らえ十字架につけようとする祭司長らに協力しているのです。
イエスを捕らえにきたのは、ヨハネの福音書は共観福音書と違って「一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たち」と詳しく書かれています(ヨハネの福音書18章3節・12節)。
ヨハネの福音書によると、千人隊長に率いられたかなりの規模のローマの軍隊がイエス逮捕に出動しています。
ローマの軍隊ではなく神殿守衛隊ではと言う意見もあるようですが、十字架刑はローマの法律にしか許されていないことから考えると、ローマの軍隊も出動したと見るのが事実ではないかと思います。
●44節.イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。
●45節.ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
「わたしが接吻するのが、」ですから、ユダが接吻の挨拶をもってイエスを特定したということでしょう。
ユダのこのような行為は、おそらく逮捕に向かったローマ軍隊の指揮者も神殿守衛隊もイエスに面識がなかったからでしょう。
ただし、ここで用いられている言葉は、恋人がする情熱的な口づけの意味だと言うことです。
●46節.人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
ユダは「ラビ」と呼びかけてイエスに口づけすると、前もってした打ち合せ通り、武装した一団がイエスに殺到してイエスを捕らえます。
●47節.居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。
剣を抜いて大祭司の手下に切りかかった「ある者」が、弟子であれば「弟子の一人」と、兵士とか役人であればそのように書くはずですから、ここは弟子とか兵士とか役人以外の「ある者」ということでしょう。
弟子とか兵士とか役人以外の「ある者」とすると、群衆の一人でしょうか。
当時成人男子が護身用とか装身具として短刀を携えることは、珍しくなかったそうです。
マタイの福音書26章52節には、剣を抜いた者にイエスは「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われたとあり、ルカの福音書22章51節には、「そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言われ「その耳に触れていやされた。」とあります。
ヨハネの福音書は、剣を抜いたのはペトロで、耳を切られたのは大祭司の手下のマルコスであったとしていますが、イエスはペトロに「剣をさやに納めなさい」と言っておられます(ヨハネの福音書18章10節から11節)。
各福音書の共通することは、イエスが剣を用いることを止めさせたこということです。
そして、今この時を父の御心が成就する時、つまり「あなたたちの時」(ルカの福音書22章53節、マルコの福音書14章49節)だと言っておられることです。
わたしはヨハネの福音書が事実に近いと思っています。
ここでもペトロの行動が問題になっています。
ペトロはイエスの心も、神のご計画も分からず、御霊によってイエスを知ろうとせず、肉によって衝動的に人を傷つけ、あたかも自分の行いが正しいことだと主張しているのです。
●48節.そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。
「強盗」と言う語句は、当時では反ローマの武装革命家を指す用語だということです。
暴動と殺人のかどで投獄されて、イエスの代わりに釈放されたバラバ(マルコの福音書15章27節)もこのような「強盗」の一人であったと言われています。
「まるで強盗にでも向かうように」とイエスが言われたのは、自分一人を逮捕するために武装反乱勢力を鎮圧するための軍隊の規模でイエスを逮捕にやってきたからでしょう。
●49節.わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」
「これは聖書の言葉が実現するためである」とは、イエスはエルサレムに来て隠れていたのではなく、ユダヤ教当局の勢力の中心地である神殿で人びとに公然と教えられたり、神殿から商人を追い出したりしておられますので、逮捕する機会は何度もあったはずです。
それなのに、彼らはイエスを逮捕することができませんでした。
それは民衆の暴動を恐れたからとなっています。
ようやく、彼らは裏切り者が現れその者の手引で、ひそかにイエスを捕らえる機会を得ました。
これらの経緯は偶然ではなく、イエスの運の問題でもなく、神が定めた計画が成就するためであると言っているのです。
そうです、定められたイエスの時が来たのです。
この世が神の支配下にあると言うことは、わたしたちの人生も神のご計画の中にあるということですから、人生で起こる何事にもやはりその時があるということだと思います。
●50節.弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
イエス逮捕により、弟子たちは巻き添えを食うのを恐れて、師を見捨てて逃げてしまいました。
イエスの言われた通りになったのです(マルコの福音書14章27節ほか参照)。
この時点でイエスの弟子団は解消したことになるのでしょう。
つまり、新興宗教としてのキリスト教は消えてしまったのです。
彼らが再び弟子団として復活するのは、復活されたイエスが彼らに現れて導かれるようになってからとなります。
そして、本格的に宣教が開始されるのは聖霊が弟子たちに降ってからと言えます。
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