死刑の判決を受ける(マルコ15章)
聖書箇所は、マルコの福音書15章6節から15節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書27章15節から25節、ルカの福音書23章13節から25節です。
まず、共観福音書全体を通して言えることは、聖書著者(あるいは教団)がイエスの裁判に関して、ユダヤ人の責任を重くし、ローマの責任を軽く描こうとする傾向にあるように思います。
マルコの福音書から見ていきたいと思います。
●6節.ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。
祭りの度ごとに囚人を1人釈放する慣行があるのですね。
このような慣行はローマ側の資料にもユダヤ教側の資料にもないということです。
ただし、ローマがユダヤの最高法院から死刑執行権が取り上げましたからその代償にこのような特赦の権利をユダヤ側に与えたのではと考える見方があります。
なお、調べてみると、8節で囚人の釈放は「いつものように」となっていますから、過越しの祭りのときには囚人を1人釈放すると慣行があったのでしょう。
●7節.さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。
「暴徒」とあるのは、言語的に「革命家」の意味が強いということですから、この暴徒は当時反ローマ運動の革命家ではということです。
名前の由来からバラバは著名な学者の子ではないかと言われています。
バラバと言う名は本名ではなく、指導的革命家に民衆から敬愛の念をこめて与えられたニック・ネームではないかということです。
バラバはこのようにたんなる人殺しの暴徒ではなく革命家であるならば、ローマの法律で十字架刑に架けられるのですから、ローマに対する反乱、騒乱を起こした人たちだと考えられ、ユダヤの反ローマの政治的活動家の急進派の首謀者だと言うのは確かだと思います。
●8節.群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。
●9節.そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。
バラバの釈放のいきさつは、群衆が「いつものようにしてほしい」という要求から始まります(8節)。
これは、おそらく祭司長たちが群衆を扇動してバラバの方を釈放してほしいと要求させたのでしょう。
バラバは反ローマの政治犯罪者ですから、祭司長たちにとっては、バラバの釈放はむしろ喜ばしいことであったのでしょう。
●10節.祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
ここにはピラトがイエスの釈放を提案した動機が書かれています。
「ねたみのためだと分かっていた」と説明しています。
第三者がピラトの内面を正確に知ることはできないので、ピラトという人物、あるいはピラトがおかれた状況から、聖書著者自身(あるいはキリスト共同体)がそのように理解していたということでしょう。
祭司長や律法学者がイエスを殺そうとしたのは、直接的には、律法問題(特に安息日問題)でイエスと対立したので、イエスを異端の教師として弾劾したということだと思います。
本質的には、祭司長たちの妬みは宗教者としてのイエスに対する妬みだと思うのです。
イエスのなされた神からのものと思わざるを得ない奇跡と、その教えが本質を突いていたということでしょう。
偽善者である祭司長たちにもイエスが神と共におられることを本当は分かっていたから妬んだのではと思うのですがいかがでしょうか。
聖書では、すべての紛争や殺意は妬みから生じると言っています。
妬みから来る罪は、カインのアベル殺しから始まって今日まで人類を支配しています。
あらゆる争いは、個人間においても国家間においても妬みからくることが多いと思います。
妬みであれば、祭司長や律法学者が自分たちの宗教に反対するイエスの中に、神の真実を感じ取ったからだと言えるのではないでしょうか。
民衆に人気があったイエスを、理屈ぬきに嫉妬に駆られて殺すための策略をめぐらし、不当な裁判の上ピラトに引き渡したのだと思います。
この妬みの克服は、聖書によればイエスの言葉を信じ、聖霊の導きに委ねるしかないということです。
仏教のように肉体をいじめる修行では克服できません。
●11節.祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。」
「祭祀長たちは、・・群衆を先導した」、とありますが、祭司長たちはどのようにして群衆を扇動したのでしょうか。
群衆の中に自分たちの意向通りに動く人間を紛れ込ませて、あるいは、バラバは反ローマ運動の指導者ですから、その仲間を用いて民衆を煽ったのではと思うのですが、いかがでしょうか。
もちろん、信仰者からみれば、サタンが祭司長とか民衆を用いて、扇動したのでしょう。
●12節.そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。
●13節.群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。
ピラトは驚いて、つまり、イエスは民衆に人気がありましたから、群衆はどうしてイエスではなくバラバを釈放するように要求しないのか、と思ったのではないでしょうか。
ピラトはイエスの処刑を求めているのは祭司長たちユダヤ教指導者であって、民衆はイエスを尊敬し釈放を願っていると考えていたと思います。
ところが、群衆は熱狂的にバラバを釈放しイエスを十字架にと求めています。群衆がイエスの釈放を求めるであろうというピラトの予想は外れたのです。
このような民衆の豹変は、サタンの働きがなければ考えられません。
現実的には、おそらく、一部のバラバの仲間が、「十字架!十字架!」と叫び始めたから、ほかの群衆は、特にイエスを十字架につけたいと考えていなかったのにいつの間にか自分も、「十字架!」と叫んでしまう。
付和雷同しやすい大衆ですから、そういうことも考えられます。
本来イエスは群衆に人気があったのですが、群衆は権力に弱く、群衆心理は変わりやすくて怖いものです。
サタンが入り込みやすい状態と言えます。
本来十字架につけられるのはバラバでイエスが釈放されるはずであったのに、イエスが十字架につけられることになった。この事態は、罪のないイエスがわたしたちの罪のために死なれたという十字架の意味を明らかにする象徴的な出来事といえます。
●14節.ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。
●15節.ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
ピラトは、イエスが「いったいどんな悪事を働いたというのか」(14節)、と言っています。
群衆は、ピラトにそう言われれば言われるほど、逆に大声で、「十字架につけろ。」と叫ぶことになります。
群集は昨日まで、イエスをメシヤとして担ぎ上げ、その教えに歓喜していたのに、今は、十字架につけろと叫んでいるのです。
群集心理は時としてこのように180度変わるものです。
誰も結果に対する責任を持つつもりがないから、群衆はこの事態の意味を知ろうともしないのでしょうね。
イエスを妬み、偽りの告発をし、群衆を扇動させた祭司長たちにも罪はありますが、何も考えずに悪事に加担している群衆も、その罪は同じように大きいのではと思うのです。
群衆の叫びにもかかわらず、ピラトはイエスの処刑をためらいます。
ピラトは保身のために今度は処刑の理由になる「悪事」を明確にして、裁判の正当性を納得させなければならない。
そうでないと、後で処刑の正当性を問題にされて苦しい立場に立たされることになりかねない。
群衆はイエスが十字架につけられる理由を冷静に理解しょうとせず、ただ「十字架につけろ」と叫ぶだけでした。
多数の声がいつも正しいとは限りません。少数派の意見が正しいことは大いにあります。
付和雷同とその結果の恐ろしさを見ます。いつの時代も変わりません。
ただ、このようになることもすべて神はご存じですから、人類救済のみ業のご計画の中で、このようになるべきしてなったのです。
愚かなわたしたちを、罪の中から救いあげるためには、神の無条件の罪の許しと恩恵が必要なのだと思います。
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