天に上げられる(マルコ16章)
聖書箇所は、マルコの福音書第16章19節から20節です。
共観福音書の並行個所はルカの福音書第24章50節から53節です。
●19節.主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
●20節.一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕
「天に上げられ、神の右の座に着かれた」は、当時共同体においてイエスが復活されたことを言い表す定型文であったのではということです。
主イエスは天に上げられ、天と地の一切の権能を授かって、2000年前から聖霊によってこの人間世界を支配されています(マタイの福音書第28章18節)。
右の座に着かれたというのはそういうことでしょう。
現在でも、聖霊が働かれる場では、人の思いを超える不思議な出来事が起こります。
それは、神が人間救済のご計画を完成するために働いておられることの証だと思います。
救いの手段として神は福音という情報を伝達する役目を弟子(イエスから直接召命を受けた十一弟子と受け継いだ代々の子孫である信徒)に託されました。
神の御使いである天使は、罪を犯していないから(堕天使を除いて)救いの喜びとその体験を持たないので、救いの福音を伝えるのには不適当だと思います。
それに、福音の伝達手段としての人間の言葉は、情報を伝達する手段としては不完全です。ましてや、時代を超えて伝える手段としてはなおさらです。
しかし、神はそのような不完全で、四分五列状態にある人間の言葉を用いて、言葉である神は福音という情報を伝えるように弟子たちに託されました(20節)。
福音伝道は、人間に自由意志が認められている限り、自分の意志で罪を犯したのならば、その罪から救われるためには、言葉と言う自分たちの意志伝達手段を用いて、それがどんなに困難な道であろうが、救われるための努力をするのは当然のことです。
自分のしたことには自分で責任を取る。神とはそういう方なのでしょう。
パウロによると、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ書第8章34節4)とあるとおりです。
とりなしとは、他の人の必要のために神に嘆願することですから、イエスは、伝道に携わる者、救われた者のために、父なる神にその必要を執り成してくださっているということでしょう。
この世は、神の支配下にある範囲は増えてはいるけれども、悪魔の支配下にあるところもまだまだ多くあります。
まだ、終わりの日は始まったばかりなのかもしれません。
しかし、いずれ神は、最終的にこの地上に裁きを下すために御子キリストを、再び世に遣わされます。
そのときに、反キリストと偽預言者は、火と硫黄の池に投げ込まれ、悪魔は地獄を象徴する底知れぬところで鎖につながれます。
キリストにある者以外の人々、つまりその他の人々のことは、律法の下にある者は律法により、律法の下にない者は、行いによって裁く(ローマ書2章と黙示録にそのように書いてある箇所があります。)となっていますが、地獄に行くとは書いていません。
地獄はあくまでも悪魔が行くところとして造られたのだとわたしは理解しています。
そして、わたしは憐れみ深い神は、過去・現在・未来のすべての人びとの最後のひとりが救われるまで忍耐してくださると信じます。
マタイによる福音書第18章12節に「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」とある通りです。
先に救われたものは、奢ることなく神が我々を憐れまれたようにわれわれも救われていない全ての人々が救いに入るようにとりなしの祈りが必要ではないでしょうか。
先に救われた者は、全ての人が救われるための魁となります。
すべての人の救いも最初のひとりから始まるものです。
したがって、イエスが神の右の座に着いておられるのは、ご自分がまた地上(今のこの天地は滅びて新しい天地が創造されます)に戻られる時までのことになります。
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