ピラトから尋問される(2)(マルコ15章)
聖書箇所は、マルコの福音書15章1節から5節の3節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書27章1節から2節、ルカの福音書23章1節から5節です。
●3節.そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。
祭司長たちが「・・いろいろとイエスを訴えた」とありますが、この色々と、というのは、おそらく、ルカの福音書第23章5節の「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです。」ということではないでしょうか。
前にも書きましたが、当時ガリラヤは反ローマ運動の急先鋒である「熱心党」の拠点でしたから、イエスの運動がガリラヤから始まったと言って、イエスの運動が反ローマの運動だと印象付けたかったのではないかと思うのです。
●4節.ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。
イエスはいっさい反論されず、黙ってピラトの前に立たれました。
誰でも自分が死刑になるかもしれないならば、自己弁護しますが、イエスは今の事態は神のみ心によるものだとして、覚悟をされていました。
神のみ心ならば、それは必ずなるものです。
だから、もう、じたばたする必要はないし、何も言う必要もない。
ただ、たんたんと進行する事態に身を委ねるだけです。
●5節.しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
マタイの福音書もここまでは同じです。
ルカの福音書23章7節には、ピラトはイエスがガリラヤの男と聞いて、ガリラヤのヘロデの支配下だと知って、イエスをヘロデのもとへ送ったとあります。
ピラトは最高法院の思惑に乗るのも癪にさわるから、素直に最高法院の意向に乗るのを避けたかったのでしょうか。
それとも民衆に人気があるイエスに自分が死刑判決を下して厄介な問題に巻き込まれるのを避けたかったのでしょうか。
ピラトがイエスをヘロデのもとに送ったのは、ヘロデにはローマ帝国から治めることを委任された現地の領主として、裁判して処刑する権限があったからだと思うのです(ヘロデは洗礼者ヨハネを処刑しています)。
そして、ヘロデはたまたまこの時にエルサレムに滞在中であったのでしょう。
ヘロデの質問に対してもイエスは何も答えられなかったので(ルカの福音書第23章9節)、イエスをあざけり侮辱(ルカの福音書23章11節)したうえイエスはピラトのもとに帰されました。
ヘロデには何か処刑をためらう事情があったのでしょうか。
それは、イエスを有罪にする理由がなかったからか、それとも、洗礼者ヨハネを処刑して民衆から批判を受けたから、二度目はもうこりごりだということでしょうか。
いろいろと思いは浮かびますが、今起こっている事態は、すべてが神のみ心で、運命ならば、もう余分なことを言う必要などないのでしょう。
イエスはこののち一切何もお答えにならずに沈黙を通されます。
イエスの沈黙は、イエスはご自分の現在起こっている事態は神のご計画として、すべてを見通しておられたことが窺われます。
イエスをピラトの法廷に訴え出た祭司長たちは、イエスの宣教活動中に言われた些細な言動を捉えて、イエスがいかに民衆の反ローマ感情を扇動する危険な人物であるかを言いたてます。
それに対してイエスはもはや一言も答えようとはされません。
通常は身に覚えのないことならば訴えられた者は自分の無罪を主張して、訴えの一つ一つに反論するものです。
だから、沈黙を通されるイエスに「ピラトは不思議に思った」のでしょう。
このまま被告が弁明しなければ、有罪にされて、この場合十字架刑に処せられてしまいます。
このようにイエスは、普通ではない態度でピラトに対応されました。
ピラトはさぞ驚いたことでしょう。
ピラトは、自分を死に追い込もうとする祭司長らの叫びの中で、黙って泰然としておられるイエスには、威厳と神秘(カリスマ)を見たと思うのです。
イエスの威厳と神秘は神の栄光の現れですから、ピラトらは畏怖を覚えたと思うのです。
イエスの黙秘で確たる証拠を得られないためか、ピラトは自分の責任で死刑の判決を下すことをためらっているように思います。
ユダヤの指導者である祭司長たちは、ピラトが自分たちの要求を飲まざるをえないように予め仕組んだように思います。
ピラトも彼らの意図を見抜いていて、自分を操ろうとしている「ユダヤ人」に対する皮肉もあって、イエスを「ユダヤ人の王」と嘲笑しながら、同時にイスラエルを嘲笑したのでしょう。
それではここで、マタイの福音書第27章24節から27節のマタイの福音書のみにある聖句を読んでみたいと思います。
●24節.ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
●25節.民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」
●26節.そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
マタイの福音書はイスラエルの人々宛てに書かれているのですが、マルコの福音書以上にイエスの十字架がユダヤ人の責任であることを強調しています。
ピラトが、自分は「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」(マタイの福音書第27章24節)と言ったのを受けて、民衆は「その血の責任は、我々と子孫にある。」(同25節)と答えたと書かれています。
ピラトは騒動になることを恐れて群衆の声に屈しイエスに死刑判決を下しますが、そのさい群衆の前で水で手を洗い、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」(同24節)と言いました。
このようにピラトは水で手を洗うという象徴的な行為をもって、自分はイエスの処刑について責任がないことを公に宣言しましたが、これは、イエスの処刑はユダヤ人の中の問題だと宣言したことになります。
それに応える形で、ユダヤ人自身が「その血の責任は我々と子孫にある」(同25節)と叫んだと記録することによりユダヤ人がその責任を認めたとしています。
ピラトは、イエスの処刑は自分の責任ではない、ユダヤ人自身の問題だと言ったのです。
しかしこれでは、ユダヤ人は民族全体としてイエスの処刑の責任を引き受けたということになりますが、はたしてそうでしょうか。
四福音書ともイエスの処刑については、ローマ側の責任を軽くしてユダヤ教側の責任を重くして描いているように思います。
これは、福音書が書かれた時代背景が影響していると思うのです。
ローマ支配の社会の中で福音を述べていくためにローマ側に配慮されているように思うのです。うがった見方でしょうか。
それは、イエスを信じる信仰はローマ社会にとって危険なものではないと訴える意味もあったのではないのでしょうか。
マタイはこのように当時のユダヤ教に対して厳しい態度を取ったのですが、この「その血の責任は我々と子孫にある」(25節)という言葉がその後のキリスト教会の歴史においてユダヤ人を迫害する根拠になったということです。
ユダヤ人は神の子であるイエス・キリストを殺した民ですから、子々孫々にいたるまでその責任を追及されるべきであるという考えです。
しかし、これは大きな間違いで、このユダヤ人に対する厳しい言葉は、マタイの福音書を生んだマタイの共同体が置かれた当時の事情(ユダヤ教からの異端としての迫害)を反映しているからだと思うのです。
その時代のユダヤ教の指導者に向かって投げつけた断罪の言葉であると思うのです。
決して、ユダヤ人全体に投げかけた言葉ではないと思うのです。
ユダヤ人はユダヤ戦争でエルサレム神殿が破壊され、イスラエルからの追放されるような厳しい審判を受けましたが、パウロもローマ書で言っているように、最後にはユダヤ人は神の恵みにより救われます。
ユダヤ人は神の人類救済のみ業の中心的存在であります。
この言葉を根拠にして、ヒットラーもユダヤ人を迫害したそうですが、それは大きな間違いであったと思うのです。
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