ペトロ、イエスを知らないと言う(マルコ14章)
聖書箇所は、マルコの福音書14章66節から72節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書26章69節から75節、ルカの福音書22章56節から62節です。
●66節.ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、
●67節.ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
さて、いよいよペトロがイエスを否認する場面です。
イエスに死刑の判決が下りた時、ペトロは大祭司の屋敷の庭で「大祭司に仕える女中の一人」に問いつめられていました。
しかし、ペトロは危険を冒して大祭司の庭の側に来ていたのです。
やはり、師イエスのことが気になったのでしょう。
●68節.しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
イエスの仲間だと主張する女中の言葉に、ペトロはイエスを知らないと否認します。
ペトロはイエスと寝食を共にして教えを受けてきた直弟子です。
つい先刻、「たとえあなたと一緒に死なねばならないとしても、決してあなたを否認しません」と宣言したばかりです。
そのペトロが、イエスを「知らない」と言って否認するのです。
ペトロのいる場所は、裁判の席ではないのです。
それも、暗闇の中で一人の女中に問い詰められただけなのです。
ペトロもわが身を守るために反射的にその様に答えたのでしょうか。
●69節.女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
●70節.ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
ペトロは一度イエスを知らないと否認しますが、女中は再度「この人は、あの人たちの仲間です」と、今度は周囲の人々に聞こえるように言います。
ペトロは再びイエスを知らないと否認します。
居合わせた人たちがペトロを「ガリラヤの者」と言っていますから、ペトロにはガリラヤ訛りがあったのでしょう(マタイの福音書26章73節)。
背景には、ガリラヤでのイエスの活動はエルサレムでも評判であったでしょうから、居合わせた人にすれば、ガリラヤの人間はイエスの運動に加担する仲間であって当然という見方もあったのでしょう。
●71節.すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
「呪いの言葉さえ」とありますので、ペトロは追い詰められて、イエス逮捕の巻き添えを食うのを非常に恐れていたのでしょう。
「あなたがたの言っているそんな人は知らない」とペトロは行ったのですから、イエスの名を口にすることさえ恐れていたのですね。
わが師のことを「そんな人」とはきつい言葉です。それも誓いを立てて断言しています。ペトロの逃げたい必死の思いが伝わります。
女中に問い詰められて、思わず「知らない」とその場逃れでイエスを否認する言葉が三度、今度は誓って知らないと言ったのです。
気が動転していたからとか、おもわずというような言い訳は通りません。
●72節.するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。
鶏は夜が明けるときに立て続けに鳴くといいます。
したがって「鶏が二度鳴く前に」というのは、非常に短い時間の間です。
その間に、つまり、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスは予告されていたのです。それが現実になったのです。
それにしても、ペトロにとっては(キリスト教会にとっては)不利なこと、恥ずべきことが福音書に書かれていると言うことは、おそらくペトロは懺悔の気持ちで、自分の弱さを赤裸々に告白したということでしょう。
誰も己にとって恥ずべきことを作り話にして残すことはしませんので、この個所は事実あったことだと思います。
ペトロの姿はまさにわたしたちの姿です。そこにあるべき信仰の姿を見ます。
ペトロは、初代の教団を代表する使徒です。
そのことを考えると、教会の聖書改竄をとやかく言われる方がおられますが、わたしは、聖書は真実を語っていると思います。
ただし、著者の福音書を書いた目的とか、写本を書いた人の能力とか、福音書が書かれた時代背景が大いに影響していると思いますから、一字一句を捉えて、間違いがないものとして解釈するのは控えたいと思います。
いずれにしても、イエスに臨まれた聖霊と同じ聖霊が福音書著者に臨まれてこの福音書が書かれたと思いますので、そういう意味では、福音書も神の言葉として正しいと思います。
なお、福音書が絶対的な神の言葉であっても、相対的なこの世を生きるわたしたちに対し書かれているので、意味はやはり相対的にとらえるべきだと思います。
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